ある日の風景

 久々に広尾に足を運ぶ。昔行ったことのある駅前のカフェは、昼前だったので、オープンしていない。仕方ないので道路沿いに元来た道を戻り、交差点で細い坂道を入ると、私の好きな「オープン・カフェ」が見えた。中のカウンターには、口のまわりに髭を生やした外人のウエイターの顔が見えた。
 この辺りは、日本であって日本ではない、東京であって東京ではない、良さがある。つまり、不思議な西欧的な空間なのだ。道行く人もどこか違った雰囲気がある。頭陀袋を下げて、薄汚れたジーンズをはいたホームレスさえ、どこかイケてる!年老いたカップルが通り沿いのテーブルでコーヒーを飲みながら、クロワッサンを食べている。男性が小粋に肩に掛けているライトブルーのニットや婦人の良質そうで華やかなワンピースにも、驕りや嫌味がない。こんな洒落た日本人カップルもいるのかと、羨望と驚きで暫し目が離せない。
 一台の白いベンツが目の前をゆっくり走る。中には還暦を超えたと見える初老の紳士が野球帽を小粋にかぶり、ハンドルを握っている。濃いめのサングラスも様になっている。
 金持ちの若者には何かきな臭ささが漂うが、人生の折り返し地点を超えた初老の金持ちには、余裕と静かな勝利感が漂う。(了)

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金融庁が求める新たなコンプライアンス~「基本方針」が示唆する経営者の意識改革~

                                                              2018年8月23日
                                            コンプライアンス・アドバイザー  岡本展幸
 
 金融庁は、新たな方針として「金融検査・監督の考え方と進め方(検査・監督基本方針)」(6月29日)、「コンプライアンス・リスク管理に関する検査・監督の進め方と考え方(コンプライアンス・リスク管理基本方針)案」(7月13日)を公表した。

 新聞・雑誌等のマスコミでは「検査マニュアルの廃止」というテーマに焦点が集まりやすいが、両基本方針において地表には表出しない太い地下茎のように通底しているのは、「経営者の意識改革」と日本の金融機関をはじめとした「日本企業の国際競争力に対する焦燥感」である。

 「検査マニュアルの廃止」に関しては、実務現場での戸惑い、混乱をよそに当局自身はそれほど重要視はしていない。もっとも検査・監督を「形式」から「実質」へと急いで舵を切ろうとする当局の「焦り」の現れととれないこともないが、実務現場でコンプライアンスを担当する役員やコンプライアンス・オフィサーほど、大きな意味を持ち合わせていない。

 もっとも、実務上、コンプライアンスを陣頭指揮するコンプライアンス部署にとっては、今回、公表された基本方針(案)の内容は大きな意味を持つ。「検査マニュアル」の歴史は、金融庁が金融監督庁の時代に「預金等受入金融機関に係る検査マニュアル」(1999年7月)の公表に始まる。それから20年近くの歳月が流れている。コンプライアンス・オフィサーの世代交代も始まっている。中には前職が作り上げた社内の「コンプライアンス・リスク管理態勢」をそのまま引き継ぎ、今日に至っているケースも多いはずだ。

 しかし今後は「既存のコンプライアンス・リスク管理態勢」では立ちいかなくなる。確かに当基本方針には「検査マニュアルの廃止は、別表の廃止も含め、これまでに定着した金融機関の実務を否定するものではない」とあるが、同時に「金融機関が現状の実務を出発点により良い実務に向けた創意工夫を進めやすくするためのものである」と明言されている。

 今後、コンプライアンス・オフィサーとしての日頃の研鑽とプロとしての力量が問われることは間違いあるまい。
しかし、それ以上に問われるのは「経営者の意識改革」であることを経営者は肝に銘じることである。(了)




フィンテックとコンプライアンス

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                                                              2017年3月26日

                                     コンプライアンス・アドバイザリー・パートナー 岡本展幸

 「フィンテック (FinTech)」とは、金融という意味の「ファイナンス (Finance)」と技術という意味の「テクノロジー (Technology)」を合わせた造語である。金融庁も金融審議会を通じて「決済業務等の高度化に関するワーキング・グループ 報告 ~ 決済高度化に向けた戦略的取組み ~」(平成 27 年 12 月 22 日)と題する報告書を公表している。
内容的にはプリペイドカードや仮想通貨の代表的な例である「ビットコイン」等に焦点を当てた項目が主体で決済サービス分野が中心であるが、これだけでは「フィンテック」という言葉に象徴される米国社会のダイナミズムや米国を中心に何年も前から起こっている金融ビジネスの革命的変革の本質を見極めることはできない。

 まず、フィンテックの発生は2008年のリーマンショックに端を発しているという側面を認識する必要がある。リーマショックを発端にして世界金融危機が勃発し、米国では多くの金融業界の人々が職を失い、また金融規制が格段と厳しくなった。その結果、金融機関はコンプライアンス・リスク管理をより徹底する必要性から管理コストが急激に上昇した。一方、金融機関を追われた人たちの一部はシリコンバレーを中心としたスタートアップ企業と手を結び、IT技術を活用した新たなシステムやソフトを開発し、金融ビジネスを従来の規制に捕らわれない手法で創造し始めた、このような一連の社会的・歴史的背景がフィンテックの原動力となっている。そこには米国人特有のpioneer spiritsが渦巻いているのだ。何もない荒野を斧一つで開拓していくという、日本人には歴史的にも民族的にも存在しない荒々しさと力強さが感じられるのだ。必要とあれば目の前にある既存物をも壊して新たなものを造りだしていくという、まさに「創造的破壊」の精神が彼らの企業理念の根底には感じられるのである。伝統的な銀行ビジネスに挑戦するプリペイドカードや仮想通貨などは、まだ「創造的破壊」のほんの予兆にすぎない。

 最新のIT技術を活用して既存のビジネスにチャレンジする分野はFinance(金融)分野だけではなく様々な業界でも発生している。例えば、広告、教育、保健、医療、不動産などの分野でも同様な動きがあり、それぞれAdTech、EdTech、InsurTech,、MedTech、 RETechと称されている。実はその大きな波は、すでに「コンプライアンス」の領域まで押し寄せている。コンプライアンスは「規制・規則 (regulation)」分野ということから、RegTechと呼ばれている。IIF(国際金融協会)によれば、機械学習、ロボティクス、人口知能などがコンプライアンス分野で活用できると報告されている。

  将来的にコンプライアンス・オフィサーのすべての仕事がテクノロジー (Technology)に置き換えられるとは思えないが、今まで三人必要だったコンプライアンス業務が一人でこなせるようになることは大いに実現性のあることだ。(了)

遠い国から帰ってきた友人

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2016年12月31日
 
コンプライアンス・アドバイザリー・パートナー 岡本展幸

 しばらくぶりに遠い異国に住む友人にメールを出してみた。彼とは30年来の友人だ。距離的には離れてはいたが、いつも心のどこかにいた。
 
私は、以前、ドイツで9年ほど過ごしたことがあり、彼とはデユッセルドルフで知り合い今日に至っている。

 K.U.という日本人の彼は、日本の大学でグライダー部のキャプテンを務め、大学を卒業した後、一時、日本の会社にも務めていた。しかし、グライダーの夢を捨てきれず本格的にグライダーをやりたいという希望を持ち、その夢を実現するためにドイツに渡ったのである。K.U.は、グライダーにかかる費用及び生活の糧を得るために私が当時、勤務していたデユッセルドルフにあった日本企業の現地法人に入社してきた。

 K.U.とは職場でのことよりも会社を終えた後に、一緒に通った現地のKarate Schule(カラテ・シューレ、空手道場)でのことや仕事を終えたあとAlt Stadt(アルト・シュタット、旧市街)に一緒に繰り出して、Alt Beer(アルト・ビア、デユッセルドルフの地酒)やドイツ・ワインを飲みながら遊び歩いたことのほうが思い出深い。

デユッセルドルフで3回目のクリスマスを迎えてからしばらくしたある日、私に日本への帰国辞令が本社から届いた。私は仕方なく帰国したが、その後もK.U.はドイツに残り同じ会社にしばらく勤務していた。

 数年後、彼はその会社を辞め、自らドイツで会社を立ち上げドイツでの仕事も軌道に乗せ、再び、ドイツでグライダーを本格的に再開したようだった。しばらく、詳しい消息が途絶えた時期もあったが、クリスマス・カードだけは、お互い送り合っていた。

 今から9年ほど前には、操縦していたグライダーが空中分解し、重症を負う事故にも遭遇した彼だったが、そんな困難も乗り越え、2010年12月には、グライダーの飛行距離で彼自身5度目となる日本記録を更新した。その新記録は、アフリカのナビア共和国で樹立し、日本航空協会が日本記録に認定した。

 そんなK.U.ともしばらく会う機会がないまま、時間だけが流れていった。彼は、暮れになるとヨーロッパのどこかの空をグライダーで飛ぶのが恒例と知っていた。先日、メールで年末年始の挨拶を送信した。てっきりアフリカのナミビアあたりでグライダーにでも乗っているかと思っていたのだが、K.U.からすぐに返信が届いた。着信したメールを開き内容を読み始めると彼は、なんと半年前に日本へ帰国していたことが分かった。驚きと多少の興奮の中メールを読み進めると、実家のある地方都市に落ち着き、日本でのグライダーの振興を進めるための組織を立ち上げ、その準備に奔走しているとのことであった。K.U.のそんな夢は以前から聞いていたので、全く違和感はなかった。むしろ確実に自分の夢に向かって第二の人生を日本で始めたのだと感じた。

 今年の最後の今日、K.U.と何年かぶりに電話で話をした。
遠い国から一人の懐かしい友人が36年ぶりに日本へ帰ってきてくれた!来年は必ず再会できるはずだ!会ったら最初に何と言おう?それともドイツ人らしくハグでもしようか?(了)

Compliance has really taken root in Japan?

Hiroyuki Okamoto

It was not until the Financial Services Agency (then Financial Supervisory Authority) had publicized the first inspection manual for the banks in 1999 on their website and started to conduct on-site inspections for the relevant financial institutions that the katakana transliteration of "compliance”, “konpuraiansu" drew public attention and became widely known in Japan.

Although more than ten years have passed since then, its conceptual origin and historical background have been little studied and clarified so as for us to accurately understand "konpuraiansu " by absorbing not only its letters but its spirit. What is worse, even the exact meaning of the " konpuraiansu " has not been commonly shared nor accepted. Its uncertain concept and vague image has been flooding into Japanese business society and causing misunderstanding to the people who are trying to work observing the “compliance”, which has resulted in our chaos.

Currently does it seem that the term “compliance” has been often heard and spoken in our daily communication unconsciously as if it were originally Japanese word. If I may venture to say, the relevant concept, logic, ideas and history rested behind the "compliance" originated in the western society have not been fully discussed and studied by the financial experts/scholars and the industry participants in Japan.

The katakana transliteration of "compliance”, “konpuraiansu" has been so widely recoginzed in Japan to mean only "regulatory compliance". “Regulatory Compliance” literally means “hourei junshu” (法令遵守). It is very
often used in Japanese as substitute for the katakana loanword of “konpuraiansu".

“hourei”(法令)means “laws and regualtions” and “junshu” (遵守) literally means "adherence, compliance, observance," etc. Coupled with these two, “hourei junshu” (法令遵守) mean "regulatory compliance.” Indeed some cautious Japanese people including myself try to say “hourei-tou junshu” (法令等遵守) by adding “tou” meaning “etc.” after “hourei,” but it still remains misleading.

In less than a decade "compliance" has been recognized as a way of company management and has rapidly spread in the business society, extensively in the financial industry based on the leading guidance of the FSA. However, its definition is still ambiguous and it is still very fuzzy in its concept. Even when the "compliance" had been initially introduced to Japan, no one had tried to tackle this potential issue so seriously as to consider from the national perspective in the light of the future outlook whether such “made-in-USA” compliance should be taken for granted and could be adapted into the Japanese society so smoothly and quickly as to be rooted in there, not causing social disorder.

“Compliance” includes or means not only observing the laws but also observing wide-range social rules, the corporate philosophy of each company, and even business ethics, which covers such multilayered concept.

What the hell is business ethics? Not many CEOs in Japan could answer it in a proper way. Without understanding it could no one conduct compliance management.

絵画のような空間

            
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  2015年11月1日

 私は仕事を早く終えた帰りに表参道駅に降り立ち、ふとある本屋に立ち寄ることがある。駅から歩いて10分とかからないところにあるのだが、表通りからは奥深いところに位置しており、さらに周りの人が行き交う路面の高さからは一段深くさがったところにある。そのため店の外観さえ容易には視界におさめることはできない。私は何年か前に付近の裏通りをふらついているときに、偶然、みつけたのだが、明るく、お洒落で、独特な店の雰囲気が気に入ってしまい、特に欲しい本がないときでも、自然に足が向いてしまう。

 その建物は青山通りに面した高いビルの谷間を抜けて、手入れの行き届いた緑の植え込みが両側に施された細い歩道を突き進んでいくと、突如と眼下に表面を大きなガラス張りにした顔を表してくる。店の中に入るには階段かエスカレーターで降りていくしかないのだが、ガラス張りの外壁の前は中庭のように程よいスペースが確保されており、そこには自然な間隔を維持しながら何席かの白いラウンド・テーブルが白い椅子とセットで緑の樹木に囲まれて配置されている。そして、いつ行ってもテーブル席が人であふれていることはなく、都会の喧騒を逃れるように静閑の中でゆったりと寛いでいる若い男女や、一人で何かの本を読みふけっている人を何組か目撃するだけだ。

 歩いてきた地面から十数メートルだろうか、地下にもぐるようにして店の入り口にたどり着く。中に入ると地下にある割には、店内の圧迫感や暗さは感じない。入り口の左壁を全面ガラス張りにして日差しを十分受け入れるように建物が設計されているのと、工夫された照明効果で店内はすこぶる明るく感じる。広さや天井の高さも十分で、フロアの一面には数多くの書籍や雑誌が、お洒落なブティックの棚に綺麗に陳列された衣服のようにゆったりと並べられている。しかし何かを語りかける絵画のように、どれも個性豊かな顔や色を持ち、同じ方向には向いていない。

 書店の個性は、自分の経験則から言っても店内に足を一歩踏み込んだだけで分かるものだが、この店の入り口近くにはいつも、店主こだわりの小さな「特集コーナー」が設けられている。これらの書群は、まず他店では見られない類のものだ。本の内容は静かな語り口ながらにも主張があり、文化や歴史があり、そして文学性、芸術性が本表紙の色やタイトルからでさえ感じられるものばかりだ。

 建築やファッションをあつかった洋書も多く取りそろえており、アパレル関係の仕事をしているな、と一目でわかる風貌の若者を見かけることも多い。近くに私立大学があるせいか、先端をいくファッションを取り込んだ身なりのお洒落な女子学生や男子学生が、何かの本を目で探しながら書棚の前でたたずんでいる姿をときおり見かける。そんな目の前の被写体は風情があり、店の雰囲気に溶け込み淡い水彩画のような一枚の絵になる。

 それと同じような現象が店で偶然、手にした書から思わず立ち上がることがある。ある日には、それがヘミングウェイの『海流のなかの島々』からであったり、また、ある日には須賀敦子の『ミラノ霧の風景』からであったりするのだ。須賀のエッセイやヘミングウェイの小説を読んでいると、「言葉がほとんど絵画のような種類の慰めをもってきてくれる、画家がくれるような休息を書物からもらうことがある・・・・」(須賀)のだ。 私は今日も、ひと時の休息をもらいに絵画のような空間に足を運ぶ。(了)

コーポレート・ガバナンス・コードとJ-REIT(不動産投資信託)

2015年1月12日(月)
                       
コンプライアンス・アドバイザリー・パートナー 岡本展幸

 昨年の12月17日、金融庁は上場企業を対象とした「コーポレート・ガバナンス・コード原案」を公表し、本年1月23日必着にて広くパブリック・コメントを求めている。

 同公表文には、当コード原案は、『会社が取るべき行動について詳細に規定する「ルールベース・アプローチ」ではなく、会社が各々の置かれた状況に応じて、実効的なコーポレート・ガバナンスを実現することができるよう基本的な原則を提示する、いわゆる「プリンシプルベース・アプローチ」を採用しております。』とある。

 つまり、対象企業は最終案が決定し、関連法令等が施行された後には、同コードをもとにして自らの企業に最適な「コーポレート・ガバナンス」を構築していく必要に迫られることになる。昨年6月に改正された会社法の内容に対してもセットで取り組むことになる。今回の会社法改正は、コーポレート・ガバナンスの機能強化がメイン・テーマのひとつになっていることを忘れてはならない。

 J-REITに対する具体的な対応についての詳細は、今後の金融庁や東京証券取引所からのガイドライン等の公表を待つ必要があるが、今年はJ-REITやその資産運用会社に対してもコーポレート・ガバナンスの強化が要請されてくることは間違いないだろう。

 そもそも、その必要性は2011年2月にCFA協会から公表された「アジア太平洋地域のREIT-ガバナンスの改善を通じて信頼を築く」と題する報告書(注)の中で指摘さていることであった。同報告書では投資主保護の観点からスポンサー企業と投資主の間の「情報の非対称性の存在」や資産運用業者、投資法人の役員会の独立性、関連当事者取引に関して投資法人役員会による承認が不必要などといった制度上の問題点に対する改善が提案されていた。

 そのようなCFA報告書の内容も踏まえて筆者は、「J-REITに求められるコーポレート・ガバナンス」と題するセミナー講演を2012年の4月と6月に2回行っている。セミナー1回で3時間の時間制限が短く感じられた。

 そのセミナーの中で、筆者はJ-REITにおけるガバナンス体制のあり方やコンプライアンス体制のあり方などについて解説するとともに、運用会社が行うIR業務に関連したガン・ジャンピング問題(有価証券届出書の提出前の勧誘禁止規制)とJ-REITのインサイダー取引を取り上げた。

 やや先取りした上記セミナー内容に対して、当時はやや時期尚早に思われた向きもあったようだが、リート関係者は今後、ますますこのようなテーマと真摯に向き合い、自社のコーポレート・ガバナンスを再確認、再構築する必要があるだろう。(了)

(注)
同報告書の改善要望内容に関連して、2014年12月1日施行の投資法人法制においては、次のような改正がされている。①スポンサー企業等の一定の利害関係人等との取引については、役員会の事前承認に基づく投資法人の事前同意を必要とする。②監督役員の第三者性を確保するための監督役員の欠格事由にスポンサー企業等との利害関係を有すること等を追加し監督役員の欠格事由を拡大した。

人は、何故、社会人になると小説を読まなくなるのか?

コンプライアンス・アドバイザー  岡本展幸

 
(1)社会人は、忙しいから小説を読まなくなるのか?
 良く言われることである。ここでは、標題に対しては科学的なデータに基づいた命題ではないことを最初にお断りしておく。第一、そのようなデータは手許に持ち合わせていないのである。だから、標題は、「何故、私は社会人になって小説を読まなくなったのか?」、あるいは「何故、私は社会人になって小説を読めなくなったのか?」と置き換えても良い、と知的で論理的で科学的な話を期待する読者には、事前に「防波堤」を張って自己弁護しておくことにする。

 さて、「人は、何故、社会人になると小説を読まなくなるのか?」という問いに対して、多くの人が気軽に思いこんでいる答は、社会に出たら仕事が忙しくて小説など読んでいられないから、ということだろう。

 半分は合っているようだが、最近、どうも納得がいかない気がしてきたのである。もう少し、別の側面から考えてみたくなってきたのだ。そんな気がしてきたのは、自由気ままに使える時間が近ごろ筆者に少し増えてきたことが要因の一つである。

 社会に出て会社に入れば仕事に追われて忙しくなり、自由な時間も減り、身体も疲れる。帰宅した後は、テレビをつけて、寝ころがりながらビールでも一杯、というのが一番、自然で健全な誰でも納得してしまいそうな社会人(ビジネス・パーソン)生活のパターンだ。

 しかし、そんな「カウチポテト族」的な社会人の中にも、多くの仕事関連の「本」を読む者は少なくない。いわゆる、高度な知的武装が要求される専門職につき、グローバルに展開する経済・金融動向を注視したり、日進月歩のIT技術にキャッチアップする必要に迫られるために、日々、帰宅後も専門書や経済誌に目を通す人たちだ。

 そのように多くの専門書等を毎日、読む人たちでさえ、「小説」を読む人はかなり限られてしまうのでないだろうか。

 それでは、何故?ここでは、「小説は仕事には直接関係しないし、忙しいから」という理由はわきに置いて、別な角度から考えてみたいのである。


(2)小説と専門書の読み方の姿勢は異なる
 両者の間では読み方が違うのである。「小説」と「専門書」両者間における読書においては、「読み方の姿勢」が本質的に異なるのである。「読み方の姿勢」が違うので、長らく専門書を読む「姿勢」をしていると、小説を読む「姿勢」をとることがだんだんと億劫になり、しまいには、そのような「姿勢」を取れなくなってしまうのだ。

ここで、読者のために「読み方の姿勢」について説明をしないといけない。
以下、石原千秋『未来形の読書術』を参考にしながら、筆者の読書経験をもとに説明内容を構成していくことにする。

 まず、われわれが小説を読む場合には、内容について自分の好き勝手に解釈し、自由に想像力を働かせながらのびのびと読むことができる。小説の読者は書いていることはホントのことだと思わなくても良いことになっている(石原・前掲書、下線、筆者)。

 一方、専門書を読む場合には、内容について自分の好き勝手に解釈したり、自由に想像力を働かせながら読むことはできない。ただひたすら、本に書かれた内容を理解しようと筆者の表現や考え方に拘束され、自由にはなれない。専門書に書かれたことはホントのことという前提に立った読み方である。

 石原によると、文学理論では、読書という行為について考える理論を「受容理論」と呼ぶらしい。そして前掲書の中で、大橋洋一『新文学入門』から次の説明文を引用している。

 「受容理論の観点からみると(中略)、読者とは、限られた情報から全体像(ゲシユタルト)をつくりあげること。これを読者と作者の関係からいうと、読者は作者からヒントをもらって、自分なりに全体像をつくりあげるといっていいかもしれません。」

 上記の理論からも、小説を読む姿勢は、読者が自由に自分の想像力をはたらかせながら内容を追う姿勢であることがわかる。それは、同時に想像力をはたらかさなければ機能しない「能動的な読み方」である。

 それに対し、専門書を読む姿勢は、自分の意見を押さえ、ただひたすら作者からの教えを乞うように、論理的な内容の展開を追う知的作業である。これは、あきらかに、小説を読む姿勢とは異なる「受動的な読み方」である。それぞれ人間の頭脳に要求される部分が異なる。


(3)社会人が小説を読まない理由
  ここで最終結論を導くためには、さらに大脳生理学や心理学などの分野から関連した理論や学説などを引っ張り出しながら検証することが必要とされるのだろうが、本稿は科学論文ではないので、そこまでの期待はしないでほしい。

したがって、上述した内容から安易に筆者自身の結論へと飛んでしまうことにする。

 つまり、社会人の多くは仕事に関連した専門書や経済誌などは社会に出てからも目を通しているものの、優先順位からして、「小説」は読んでいない。

 専門書の読み方は、想像力を駆使することを許さない「受け身の読書」だ。
このような読書を長年続けていくと、途中で「小説」を読もうとしても、それに必要な「能動的な読書頭脳」の働きが劣化しているため相当な苦痛を伴い、拒否反応さえ出てくる。その結果、多くの社会人は、(そのままだと!)ますます、「小説」からは遠ざかり、同時に、想像力も創造力も劣化した人種へと移行していく道を辿ることになる。

 やはり、標題は「何故、私は社会人になってから小説を読まなくなったのか?」に変更すべきであろうか。

(了)

一芸を極めたマジシャン

2014年3月17日

コンプライアンス・アドバイザー  岡本展幸

 一芸を極めた者には、持論がある。極めた内容を体系的に自分の言葉で表現することができる。理論体系が出来上がっている。また、独自の信念、独自の成功体験から独特な境地を切り拓いている。

 つまり先人の分野やレベルにとどまらず、それらに独自の体験から学んだものをつなぎ合わせているのだ。学問の研究分野で言えば、「従来の言説に自分の新しい言説を加えて新たな結論を導き出している。」となる。

 ふと、そんなことが頭をよぎったのは、ある友人から数年前に送られてきた「エッセイ集」を最近、読み返してみたからだ。いいマジシャンになるための「秘訣」などが独特な語り調子で書かれている。彼は高名なマジシャンである。テレビにも良く顔を出す。
 

 その小冊子には、洒落とジョークがそこかしこに散りばめられている。軽快なテンポで話が進んでいくのも一芸を極めたマジシャンのなせる技か。

 一芸を極めた名人は高度な技術の方法を教えるのではなく、いかにしたら高度な技術を習得できるのかを説く者である。教えられる技術はたかが知れている。名人ではなくとも、そこそこ技量があれば誰でも教えられる。あるいは、それらの者が著した書物から容易に学ぶことができる。

 しかし、名人と言える最高位レベルの技術を身につけるために、その方法論を求めても万人共通の方法論は存在しない。名人から他者へと伝達できる直接的な言語的媒体は存在しないのだ。名人と生活をともにし、名人の息遣い、人生の生き方、常日頃の振る舞いや考え方などを通して、やっとその秘訣を他者が学び取れるかどうかだ。ITのエンジニアがIT技術を教えることとは異なる。

 名人の域とは、凡人が一生かかっても到底、到達できないレベルの境地であり、その秘訣を第三者が学ぶことは決して容易なことではない。

 だから名人の言う言葉は、初心者には軽く、名人をめざす域に達している上位者には重く感じられるのである。

 まず、名人の同じ言葉を聞いてその言葉の真意が理解できるかできないかで、最初のふるい分けが自然になされる。しかし、名人の言葉の真意を悟ってからが本当のいばら道がはじまる。禅問答のように聞こえようが、いかなる分野でも最高位に達した者の言葉は、軽く、そして重いのである。軽いとは分かりやすいのである。初心者でも分かる。

 問題は「分かる度合」である。初心者は、「なんだ、そんなことか。」と安易に納得してしまう。中位者は、「やはり、そうなのか。」と膝を手で打ち、今まで自分が歩んできた道のりを振り返り、歓喜する。上位者は、これからまだ歩んでいかなければならない道のりを悟り、「なんと先は長く、険しいものか。」と身震いするのである。

 彼が「エッセイ集」の中で綴る、巧妙で軽い調子の語りの中に「名人の息吹」を感じたのである。(了)

「マジックと高級ブランド~人の心を虜にするものは?~」

2014年1月3日

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸

(1)ブランドのマジック
 フランスやイタリアなどに代表される高級ブランドほど、男女を問わず人の心を魅了し、虜にしてしまうものはない。

 その金銭的、経済的な価値は、どのように評価すれば良いのだろうか?高級ブランド品である一つのバッグ、一本のネクタイ・・・の市場価格は、明らかに他の同質な類似品の市場価格を大きく上回っている。

 高級ブランド品に対する市場価格の構成要素を筆者なりに分析してみると、「ブランド品のデザイン料」+「材料費」+「制作に要する人件費など」+「マージン」+「α(アルファ)」があげられる。ここでの「マージン」は、同質な類似品の平均的な数値である。

 とりわけ、高級ブランド品には最後の構成要素である「α」が、他の非ブランド品には存在しない「魔法の粉代金」として加算される。それが、ブランド料、ブランド価値となる。

 そのブランド価値の算出に対しては、ブランド品メーカーによるマーケティング戦略や市場関係者の思惑も影響するだろうが、それを手に入れたいと切望するブランド愛好者の潜在的欲求の度合が最終的には決めることになる。

 ブランド愛好者は、果たしてそのブランドに何を見出し、その価値を受容するのだろうか?ここでいう「ブランド」とは、もはや現実の時空を超え、人の視覚を超越した「何か」である。まさに、マジックでいうところの”Invisible Pass”(注:”Invisible Pass”については、当ブログ掲載の2013年5月31日付”Invisible Pass”を参照してください。)だ。

 あえてブランド愛好者の心を突き動かす「何か」を言語化すれば、それは歓喜、満足感、幸福感であり、決して人の視覚では捉えることのできないものである。この「何か」は不可視であるので、基本的には定量化も困難な性質を有するものである。その特質こそが、ブランドがブランドであることの所以でもある。

 おそらくブランド愛好者は、ブランド品の中にファンタジー(愛好者が自由な幻想によって作り上げる世界)を見出しているのだ。現実ではない架空の世界に身を置くことにより、言い知れない満足感、快楽、ユーフォリア(根拠のない陶酔)を感じているのだ。

 その対価としてブランド愛好者は、「魔法の粉代金」(ブランド料)をすすんで支払い、高価格にもかかわらず満足しているのである。ブランド品は「目に見えない確かなモノ」をブランド品愛好者に対して平等に提供してくれる。

 シャネルの五番(香水)を身につけて裸身で真っ白なシーツで覆われたベッドに潜り込めば誰でもマリリン・モンローになれる。エルメスのネクタイを締めてアルマーニのスーツで身を固めれば、ハリウッドのイケメン俳優に変身できるのだ。そんな魔力を高級ブランド品は秘めている。少し自由になるお金があれば、誰でもがその虜になってしまう。

(2)マジックのブランド
  いっぽう、マジックもそうだ。それを見入る観客は誰もがマジックを心の底から真実とは思ってはいない。何かトリックがあるはずだと思っている。それでも歓喜し、満足している。明らかに観客はマジックの中にファンタジーを見出している。

 燕尾服の胸元のポケットから取り出した白いシルクのポケットチーフから白い本物の鳩が何羽も現れる。なみなみと本物の水が入った大きな水槽に手錠をかけられて沈められた美女に黒い大きな布をかけて、マジシャンが数秒数えてその布を取り上げると、その美女は水槽から消え観客席の後ろから姿を現す。

 観客はあり得ないことに驚き、歓声をあげながら拍手を送る。観客の心を一時、現実の世界から遊離させ幻想な世界へと誘い、遊泳させる。そこには観客の大きな感動と満足感がある。その対価として観客は惜しみなくマジック・ショウへと足を運び入場料を支払う。

 マジックとブランド品、どちらも決して現実ではない夢の世界へと人々を誘い、虜にしてしまう。そして人々に喜びや満足感を与えて離さない。「魔法の粉」を人々にふりかけ、ファンタジーの世界へと誘うマジック・ショウは、高級ブランドの世界そのものだ。

(3)マジックとブランドは異なる?
 だが、ただ一つだけ両者間で異なるものがある。マジックはマジシャンが観客にマジックをかけるもの、ブランドは愛好者自らがマジシャンとなり自分自身にマジックをかけるもの、という点だ。マジックは受動的で、ブランドは能動的だ。だからマジックは一時的だし、ブランドは自分で覚醒して止めるまで半永久的だ。

(4)究極のマジック 
 ・・・・などと、とりとめのない事に新年早々、思いを巡らしている。この一見、何の連関性を持たない「マジック」と「ブランド」という二つの事象に対して既述したようなつながりを見出したのは、どうしたことか?

 その遠因をフロイトの深層心理学的に自己分析してみると、高名なマジシャンである友人の存在と個人的なブランドに対する関心の高さが影響しているようだ。これら二つの事実が心の奥深くのどこかで通底していて、変に混ざり合い上述したような妙な言説を造りだしたのだ。まさに、究極のマジックだ!
新年早々、彼のマジックにかけられているのか・・・。(了)

「知識の情報化 」と「情報の知識化」

コンプライアンス・アドバイザリー・パートナー  岡本展幸

 情報通信技術の急速な発展により、つい最近まで個人には入手が困難であった情報がいとも簡単に、それも無料で世界中から手に入る時代になった。ややもすると、情報の渦に飲み込まれてしまい、必要なデータを選び出すのに困惑してしまいそうな勢いで情報網は急拡大している。

 一方で、誰もが自分の知識や経験をブログやホームページを通して、タダ同然にいともたやすく世界に対して公開・公表することが可能となった。中には「ウィキペディア」といった無料でインターネット上に公開されている百科事典のようなものまで出現して、伝統的なブリタニカ百科事典などの存在さえも脅かしている。ウィキペディアによれば、ブリタニカ百科事典の書籍版の発行は2012年に停止され、現在はインターネット百科事典となっている、とある。

 さらには、大学の講義でさえ無料で受講できる世の中となった。MOOC(ムーク、Massive Open Online Course)と呼ばれる、大学水準の大規模なオンライン教育講座だ。2012年に米国で生まれ、急速に世界に普及している。米シリオコンバレー企業が始めた最も大きなサイトである「コーセラ」には世界の有力大学86校が参加しているというから驚きだ。

 強い意志と相応の理解力があれば、経済的・地理的な不利な条件を乗り越えて、希望どおりに自分の学力を高めていくことができるのだ。

 しかしながら、このように画面の「あちら側」に広がる雄大な「情報の海」をうまく泳いでいくためには、まず、情報の取捨選択、つまり必要な時に必要な情報を適格に選び出していける能力が要求される。

 さらに必要とされるのは、その情報を活用しようとする側の基本的な理解力である。情報の本質的な価値は、受け手の知識レベルによって変わってくるのである。つまり、価値ある情報が万人に対して平等に公開されていたとしても、その情報を有効に活用できるか否かを最終的に決定づけるのは、情報の受け手側の知識レベルということになる。

 心理学や社会学で使用される用語に、「フレーム・オブ・レファランス」(Frame of Reference)という言葉がある。日本語では、「準拠枠」とか「思考の枠組み」とか訳されている。「フレーム・オブ・レファランス」とは、人がモノや観念、事柄、状況などを認識する際に準拠する自分の関心、経験、感情、知識、思想などの「枠組み」のことである。

 この言葉を用いるならば、収集した情報を理解し知識化して、自らの人生やビジネスで活用していくためには、情報の受け手側の「フレーム・オブ・レファランス」が大きく影響してくると言える。

 必要とされる情報がより専門的で高度になれなるほど、それを理解し活用するためには、受けて側の「フレーム・オブ・レファランス」が相対的に大きくならなければならない。そうでなければ、貴重な情報を入手できたとしても、その内容を理解し知識化したうえで、自らの目的のために活用することができない。

 そう考えてくると、「知識の情報化」がいくら進んだとしても、「情報の知識化」を進めるためには、基本的には、われわれ「情報の受け手側」の知識レベルを相応に高めながら、「フレーム・オブ・レファランス」を拡大していく必要があるという結論に行きつく。

 もっとも、「情報の知識化」の進展のために、「知識の情報化」が一翼を担っていることも事実ではあるが。(了)

米MRIインターナショナル顧客資金消失事件からの教訓 ~投資判断にコンプライアンス・チェックを~

コンプライアンス・アドバイザリー・パートナー  岡本展幸

1.事件の背景
業者の概要
 投資ファンドに関連した業者の不祥事が、AIJ年金消失事件に続き大きな社会問題になっている。米国「MRIインターナショナル(MRI INTERNATIONAL, INC.)」という、米国内の診療報酬債権を基にした金融商品を日本で販売していた業者である。

 証券取引等監視委員会及び関東財務局が平成25年4月26日付で公表している資料によれば、MRIインターナショナルは、アメリカ合衆国ネヴァダ州ラスベガス市に本店があり、東京の千代田区永田町に日本支店を置いていた。また、役職員数は、本店320名、日本支店27名(平成24年12月末現在)とされている。

 金融商品の特徴                  
 また、上記公表資料によれば、MRIインターナショナルは、業務として、米国の医療機関の診療報酬請求権(Medical Account Receivables)を運用対象とするファンドを米国(ネヴァダ州)で組成し、同請求権の購入及び回収事業から生じる利益の一部を配当することを内容とする権利(ファンド持分)を日本の投資家に販売勧誘していた、とされる。

 同社が日本で行っていたファンド事業は、平成10年から開始していたようだが、平成19年9月に施行された金融商品取引法(以下、「金商法」)上、同ファンド事業が、「第二種金融商品取引業」(金商法第28条第2項)に該当することになったことから、平成20年6月付けで、関東財務局に金融商品取引業者(以下、「金商業者」)として登録していた。

 同社は金商法上、「第二種金融商品取引業」のみ登録しており、上記公表資料などから判断すると、日本で販売勧誘していたファンド持分は、「集団投資スキーム持分」(金商法第2条第2項第5号・第6号)に該当すると思われる。

 そして、「集団投資スキーム持分」の販売勧誘は「第二種金融商品取引業」に該当することになるので、同社の登録業務とも合致する。

 投資家の心理
 同社が集金した資金の総額は1800億円と言われており、その多くの使途が不明な上、あるべき口座にさえ資金が保管されていないという。さらに今回の事件をより深刻化させているのは、対象となっている多くの投資家が、いわゆるプロの投資家ではなく、個人投資家ということだ。

 当投資ファンドの契約形態も、途中解約ができない「クローズド・エンド型」ということも、投資家が不信をいだき途中解約したくとも、そのようにできなかった一因となっているようだ。

 また、同社が投資家に勧誘する際に提示していた広告宣伝文やホームページの掲載文には、自社に都合の良い内容だけが記載され、そして、事実に反するような内容(高い配当率6%~8%など)も記載されていたようだ。

 今回、不幸にも被害に遭われた個人投資家の方々には、同社営業担当者から耳慣れない金融用語やスキーム図を見たり説明されたりしても、それらの内容の真偽を判断するのは困難であったと推察される。

 ましてや、少しでも自己資金を有利な高い利回りで運用したいという心理が強く働いてしまっていると、物事を都合の良い方向へと考えがちになり、業者の言いなりに陥りやすい。その結果、業者からの提示資料や説明内容を冷静に分析し、判断することは困難な状況になってしまう。懐疑の念が全く浮かばない状態だ。

 仮にそのような意思が多少、投資家に働き、常識ではあり得ない「高利回り」には疑いを持つことはあるだろうが、通常、個人投資家が、今回のようなファンド・スキームを業者から見せられても、その内容の是非を判断するのは困難である。

 ファンド・スキームの透明性や適切な構成内容といった金融のテクニカルな観点から同社の説明資料を金融のプロが判読すれば、今回の金融商品は不透明でリスクの高い商品であることが判断できただろう。しかし、それを一般の個人投資家に期待するのは少し酷というものだ。

 金融のプロではない一般的な個人投資家は、上記のような複雑な金融商品を正確に理解することは困難かも知れない。しかし、悪質な金商業者を見抜く術はあるはずである。

 コンプライアンスの「尺度」を利用して、業者の信頼度を確認してみるのである。これなら複雑な金融商品の内容や金利・為替動向などといったテーマに詳しくなくとも、基本的なコンプライアンスの知識があれば、どんな金商業者に対してもある程度は対処できる。


2.金商業者に対するコンプライアンス・チェック 
 コンプライアンスとは、通常、社内から自社の業務内容や業務取引に対する不正や誤りを正したり、それらが法令等に抵触しないように事前に必要な社内規則を作成するなどして、社内のリスク管理体制を構築することである。さらに、必要な法令や社内規則等を役職員が率先して守るような企業文化を醸成することを目的とするものである。

 筆者は外資系金融機関(銀行、証券会社、投資顧問会社)で10余年コンプライアンス・オフィサーを務めた経験から、企業に対する内部管理機能の観点からだけではなく、企業の外側にいる投資家の立場からも投資対象先の企業や金融商品を扱う金商業者の信頼度を判断するためには、対象先のコンプライアンス・チェックが有効な手段になり得ると考えている。

 しかし、ここで念のためにお断りしておく。対象先の金商業者に対してコンプライアンス・チェックを行って、問題ないと投資家が判断したからと言って、決して投資の安全性を確証するものではない。本稿の目的は、あくまでも、悪徳業者を見抜く一つの対策として、金商業者に対するコンプライアンス・チェックを提案することなので、ご了承願いたい。

 【コンプライアンスの基本的なチェック項目
 金商業者に対するコンプライアンスをチェックするにあたり、基本的なチェック項目は、次の通りである。

①金商業者は金商法に基づく登録をしているか?

②登録している「業種」は何か?
 因みに金商法上の登録業務としては、第1種金融商品取引業(金商法第28条第1項)、第二種金融商品取引業(同第28条第2項)、投資助言・代理業(同第28条第3項)、投資運用業(同第28条第4項)と4種類がある。

③登録企業名や登録番号に基づき、金融庁、関東財務局のホームページで登録業種を確認する。
④会社のトップ(社長、CEO)は、どんな人物か?過去の職歴は?
⑤他の役員の過去の職歴等を同様に確認する。
⑥コンプライアンス担当責任者の職歴等を調べる。


 悪質な業者の中には、登録をしないで金融商品取引業を行っている者もいるので、ここまでは、初歩的なチェックだ。

 対象金商業者が登録されていることが確認できたからと言って、ここで安心してはいけない。今回、事件を起こしたMRIインターナショナルは、実際、平成20年6月4日付で「第二種金融商品取引業者」として正式に登録されていたのである。

 【重要な事実 
 ここで気を付けなければいけない重要な「事実」がある。関東財務局や金融庁に登録されているからといって、当局は登録金商業者に対しては、不正をしない立派な業者です、といったお墨付きを与えているわけではない、と言う「事実」である。

 MRIインターナショナルが、ファンド持分を投資家宛てに販売勧誘する時に、「当社は関東財務局に登録している会社なので大丈夫です。」といった説明をしていたか否かは、筆者の知る限り定かではない。しかし、このような説明は悪質な業者がよく使う、不正な常套句であるので十分に注意をする必要がある。

 さて次にチェックすべき点は、金商業者のコンプライアンス体制/態勢である。つまり、会社組織の健全性、透明性などだ。

 上記の④~⑥の事項に関しては、通常、金商業者のホームページに公開されている。開示されていな場合は、金商業者に資料提示を求めても良いだろうし、インターネットで検索しても調べられる場合が多い。

 また、金商業者は、事業年度ごとに説明書類(事業報告書)を作成し、毎事業年度経過後4か月以内に公衆縦覧に供さなければならない(金商法第47条の2、同第47条の3)とされている。つまり、業を行う営業所窓口に説明書類(事業報告書)を備え置き、顧客等の閲覧要請に対応できるようにすることが金商法上、定められているので、それを参照することが可能である。

 しかし問題をより複雑にするのは、「事業報告書」の内容を改ざんして、虚偽の記載をしている場合である。新聞報道等によれば、今回、MRIインターナショナルは、業績等を不正に書き換えていたわけであるので、理論上、学歴詐称、職歴詐称もあり得るわけだ。

 業績等を不正に改ざんしたり、役員の職歴等を詐称するのは、かなり悪質であるが、記載内容をまた、別の信頼のおけるデーターソースから二重チェックすることも、場合によっては必要になる。

 とりわけ、コンプライアンス担当者(役員が兼任する場合もある。)の人物チェックは重要だ。金商業の登録要件の中でも重要な位置を占めているからだ。

 業者が「第二種金融商品取引業者」として登録申請する際には、「営業部門とは独立してコンプライアンス部門(担当者)が設置され、その担当者として知識及び経験を有する者が確保されていること」が審査項目の一つとしてあげられている(「金融商品取引業者等向けの総合的な監督指針」証券取引等監視委員会)。

 過去の業務経験や知識の度合は、過去の職歴等でかなり判断できるので、コンプライアンス担当者の職歴等を見て、業務経験が不十分な場合は会社のコンプライアンスは危なっかしいし、怪しい業者ほど経験不足なコンプライアンス担当者を設置するものだ。その方が、経営陣の言うままになり、悪事を働きやすいからだ。

 また、コンプライアンス担当者をはじめ金商業者の役員が過去に勤務していた企業が素性の分からいような組織の場合には、その登録金融業者は、まず怪しいと考えて良いだろう。コンプライアンス担当者が役員と結託して、悪事を働く場合もあり得るので注意が必要だ。

3.投資判断にコンプライアンス・チェックを 
 通常、個人投資家が投資判断する時の注意点というと、金融商品に対する投資リスクにだけに目が向きがちだ。しかし、往々にして、大きな問題化する投資商品というものは、悪徳業者によって販売勧誘される。

 従って、複雑な金融商品を理解するのが困難な場合には、まず、勧誘してくる業者のコンプライアンスを上記のような項目からチェックしてみたらどうだろうか?

 個人投資家も上記のように、ある程度のコンプライアンス知識をもち、金商業者に対するコンプライアンス・チェックを行えば、悪徳金融業者に対して、自己防衛策することができる。決して万全策とはならないものの、相応に、投資に対するリスク判断にも役立つ筈である。

(注意)
・本稿に記載されている情報は一般的なものであり、特定の個人や組織において対応する  ことを前提にしているわけではありません。また、本稿は信頼できると考えられる情報に基  づいて作成されていますが、筆者はその正確性および完全性に関して責任を負うもので   はありません。

・不動産および金融商品等の選択、投資判断の最終決定、または本稿のご活用に際し     ましては、活用者ご自身で個別・具体的にご判断いただき、ご活用くださいますよう
 お願い致します。

・本稿の無断転載、無断複製等を禁じます。
                                                          
                                                  (以上)

Invisible Pass(目に見えない通過?)

コンプライアンス・アドバイザリー・パートナー  岡本展幸

 今夜も、旧友のマジシャン(「マジッシャン」ではない。)と、青山のとある場所で定例会を二人で開いた。マジシャンとコンプライアンス・アドバイザーというunusualな(普通ではあり得ない)組み合わせなので、話題はunusualな内容になる。

 今夜は奮発して、一本五千円もする赤ワインを二人で飲みながら、話は経済、外交、政治、コミュニケーション論、文学、言語学までといつもながら尽きない。

 マジシャン曰く、「Invisible Passを訳してみな。」
こちらも、海外生活10年、外資系金融機関で10余年勤務経験がある身。分からないとは言えない。

 「目に見えない通過、という意味かな?」
旧友マジシャンは、おもむろに自分のバッグからトランプを取り出し、「お前の好きなカードは何だ?」と。
「ハートのエースだ。」
(単純にその時、AKBではなく、キャンディーズの歌詞が頭に浮かぶ。)

 旧友マジシャン、おもむろにテーブルの上にトランプの山を置き、「一番上のカードをめくってみろよ。」という。
めくると、ハートのエースだった!!

 「これが、Invisible Passだよ。」と旧友マジシャン。
英検1級取得者、外資系金融機関に10余年勤務経験者の当方にも、「pass」の日本語が頭に浮かばない。言葉の重さを痛感!

 帰宅後「pass」の和訳をジーニアス英和電子辞典で調べると、「(催眠術・奇術の)手の動き;手品」とある。思わず、鳥飼久美子の著書『歴史を変えた誤訳』を思い出した。(了)

これからのJ-REIT~より高度なコンプライアンスが要求される時代に~

コンプライアンス・アドバイザリー・パートナー  岡本展幸

(1)金融審議会ワーキング・グループによる最終報告 
 J-REIT(日本の不動産投資信託)市場が再び活況とり戻しつつある。J-REIT市場は、2011年に創設10年を迎え、翌年2012年には投資法人4件の新規上場が行われ、今年2013年も年明け早々同2件の新規上場が続いている。

 安倍新政権の誕生により、今後、さらにJ-REIT市場に追い風が吹くことが市場関係者の間では期待されている。

 一方、2010年6月に閣議決定された「新成長戦略」を受けて金融庁が公表した「金融資本市場及び金融産業の活性化等のためのアクションプラン」に基づき、投資信託・投資法人法制の見直しに関する検討が昨年、金融審議会ワーキング・グループ(WG)により進められていた。同WGは、昨年末、2012年12月12日付で最終報告を公表した。

 同WG最終報告によれば、ライツ・オファリングや自己投資口の取得など、投資法人による資金調達の多様化をはじめ、インサイダー取引規制の導入、投資家の信頼を高める意思決定確保のための仕組みの導入など、多岐にわたり、投資法人法制について制度改正の方向性が示された。今後、WGの審議および最終報告の結果を踏まえて、関連法の改正案の提出など、2013年度中に制度整備が行わる予定である。

 2013 年1 月には、早くもJ-REIT によるエクイティファイナンスが相次ぎ、新規公開(IPO)2 件を含む6 件の公募増資が公表され、公募・売出しの総額は、昨年1 年間の実績(4,964 億円)の半分にあたる2,536 億円に達している。(出所:ARES J-REIT REPORT -Vol.39 February 2013)


(2)今後、運用会社の金融リテラシーが問われる
  今後、投資法人による公募増資をはじとしたファイナンスの増加が、上述した制度整備の進展ともに予想される。それに伴い、今後、J-REITの投資口価格に影響を与える要因の一つは、投資法人の資金調達のために実質的に采配を振るう立場にあるJ-REIT資産運用会社(以下、運用会社)の金融リテラシー(知識能力)である。
 
 そして、これからの運用会社は金融リテラシーを高めるとともに、それに見合った社内のコンプライアンス体制を整備し直すことが喫緊の課題となるだろう。

 J-REITは金融と不動産の融合と言われる。しかし、少なくとも日本における両業界の企業文化は、異なるところが多い。最近でこそ不動産業も金融業と重なる業務分野が増えてきているため、両社間の企業文化は徐々に重なる部分も出てきているのも事実のようだが、決して重なり合っているわけではない。そのような背景もあり、J-REIT業界においては、まだ、十分な両者間の融合が終了していない状況だ。

 両産業界を管理・監督している当局も、国土交通省と金融庁(証券取引等監視委員会)と異なるカルチャー(監督文化)が存在する。運用会社は、実務的にはどちらかというと後者の管理・監督の影響を強く受ける立場にあるため、「金融商品取引法」(以下、金商法)や「投資信託及び投資法人に関する法律」を主軸に、金融庁の管理・監督に重点を置いたコンプライアンス体制を構築していく必要性に迫られる。

 そのような組織的背景を持つ運用会社には、過去に金融業務を経験してきた役職員は限られており、運用会社に勤務する役職員の構成は不動産業界や不動産ビジネスからの出身者を中心に占められている。ここで述べようとしているのはどちらの業界の出身者が優れているのかといった優劣論ではない。そうではなく、不動産業界の「慣行」、「常識」、「ビジネス・センス」だけでJ-REITの資産運用業を進めていくと、こらからは、益々、コンプライアンス・リスクを顕在化させる可能性がある、ということである。

 両業界における企業文化の違いはJ-REIT市場創設時より言われていたことではあるが、今、ここでそのことを再度、思い起こし、人的構成も含めて現行の社内管理体制を再検討し、必要に応じたコンプライアンス体制の再整備を実行する時期を迎えていることに運用会社は留意する必要がある。

 J-REIT市場の創設以来、早10年が過ぎ、当初から同市場に参加している運用会社に慢心しているところは無いのか?コンプライアンス上、死角はないのか?各運用会社内で再検討してみる必要があるだろう。

(3)より高度なコンプライアンスが要求される時代に
  現行法では投資法人の投資証券は、金商法の「特定有価証券等」には該当しないため、インサイダー取引規制の対象とされていないが、今回のWG最終報告では、上場投資法人に係る投資証券の取引をインサイダー取引規制の対象とする方向性が示された。

 いよいよ、投資法人の資産運用会社もより高度な社内管理を要求される金融商品取引業者として扱われ、社内のコンプライアンス体制/態勢が今まで以上に、金融庁(証券取引等委員会)や国内外の投資家から問われることになる。

 今回の法改正が施行されることにより、監督当局から期待される運用会社のコンプライアンス体制/態勢のレベルは、より「第一種金融商品取引業者」である証券会社に近づくことになる。「第一種金融商品取引業者」とは、金商法上、一番厳格に社内のコンプライアンス体制/態勢が要求される業者だ。この重大さを認識しているJ-REIT関係者はどれほど存在するのだろうか?

 過去に筆者がコンプライアンス・オフィサーとして勤務していた頃、当局から検査を受けている時に、ある検査官が言ったものだ。「検査に入り、その企業のインサイダー取引に関する未然防止策の状況やインサイダー取引に対する役職員の意識を確認すれば、その企業のコンプライアンスのレベルが分かる」と。

 また、一方、香港、シンガポール等のアジア・リート市場との競争は、年々、激化していくことが予想される。そんな国際市場間の競争時代の中で、J-REITが勝ち残るための鍵は、海外投資家にも信頼され、理解されるJ-REITの適切な運用体制に対する「可視化」(分かりやすさ)であり、「説得」である。

 それを実現できるかどうかは、各運用会社がグローバル競争に「共通したルール」(the rules of the game)であるコンプライアンスに習熟し、いかにそれを有効に駆使して、海外市場や海外投資家にもアッピールできるかにかかっている、と言っても過言ではあるまい。

 従来から、コンプライアンスには、面倒で嫌なもの、コストがかかり収益を生まない社内の「飾り物」的な扱いを受けやすい側面が存在する。

 しかし、J-REITが、これからのグローバル競争時代を生き抜き、勝ち残っていくためには、J-REIT関係者自身が、そのような考え方を大きく転換し、より高度なコンプライアンスに習熟し、それをむしろ有効に駆使していく必要性があることを、時代は我々に提起してはいないだろうか。 (了)

コンプライアンスに対する誤解(1)

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸

 企業やそこで働く社員などによる不祥事が起こるたびに、「コンプライアンス遵守」ということが、新聞や雑誌、そしてテレビなどのマスコミ報道で取り上げられるようになってから久しい。

 最近の各マスコミによる報道ぶりを視聴していると、「コンプライアンス」という言葉はすでに市民権を獲得し、その意味するところも広く日本社会一般に周知されていることを前提に、不祥事に対する批判や議論が展開されているように思われる。

 しかし、コンプライアンス・オフィサー(コンプライアンス管理責任者)として現場で長くコンプライアンス管理に携わり、現在、コンプライアンス・アドバイザーをしている筆者には、「コンプライアンス」に対する正確な理解が未だ十分に日本社会には浸透していないのでは、という疑念が湧いてくることがある。理解が不十分というより、コンプライアンスは誤解されているのでは、と言ってしまったほうが正直な感想である。

 例えば、以下のような問題が出されたとする。

(問題):次のコンプライアンスに関する記述の中で誤っているものを指摘せよ。
①コンプライアンスは、法令を遵守することである
②法令を遵守していれば、コンプライアンス違反にはならない
③コンプライアンスは、コンプライアンス管理者が理解すれば良い
④コンプライアンス違反のチェックは、コンプライアンス管理者がすれば良い
⑤コンプライアンスは、コンプライアンス管理者の責任事項だ
⑥法律や制度は、パーフェクト(完全)だ
⑦企業が自らの正当性を主張するには、法的な立場だけを重視すれば社会にも理解され、認めてもらえる

正解は、「すべて誤り」である。              (続)

グローバル時代における日本語の危うさ

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸

 (1)政治家が話す不可解な日本語
 最近、テレビを観ていたら、我が国の首相が先に自ら公言した「近いうちに」という日本語表現に対して、記者からその語義を尋ねられ、「それ以上でもそれ以下でもない」と意の解さない返答していた。

 言葉は政治家の命、と言われほど言葉は政治家にとっては重要であり、政治家は発する言葉を慎重に選び、発する言葉に責任を持ち、発言するものだと海外では言われている。冒頭のような発言をした当の本人は、だからそう答えたのだと主張するのかも知れない。

 筆者は、一国を代表する政治家の日本語を耳にして、ある事を思い出していた。それは、経済のグローバル化が急速に進展し、望むと望まざるにかかわらず、日本人が外国人と接触する機会が急増している時代の流れの中で、今後、我々日本人がますます直面せざるを得ない異文化コミュニケーションの難しさである。

 海外のcounterparty(相手)と意思疎通を図るためには、共通に理解する意思疎通手段である「共通言語」が必要になる。その第一言語は、日本人にとり、あらゆる事由により、英語であろう。

 英語を使って外国人を相手に議論や交渉などをする時は、我々が日本人同士で日本語を使って話す時とは異なり、日本人としての本来の発想や言語表現を転換し、日本語の直訳ではない適切な英語表現で発話する必要性に迫られることがある。

 そんな日本語の言語的特性が我々日本人に与えるストレスやジレンマを、筆者は過去の20余年にわたる海外ビジネス経験や8年以上に及ぶ海外生活を通じて痛感している。

 我々が日本人同士で日本語を使い、話をする時には、我々の意識の根底には、意識的か無意識的かに係らず、「相手を思いやり」、「相手の顔を立てる」ために、相手を非難する直接的な表現は出来るだけ避けて、場合によっては自分の真意とは全く異なる内容の発言をしたり、「口ごもったり」、あるいは「黙ったり」してしまうことが多々ある。

 そのような対応を取られた相手側もこちらの真意をそこからできるだけ良心的に推察し、理解するよう努めるのが日本社会では「大人の対応」とか「常識人のあり方」とされてきたような気がする。また、そのような意識構造や言語習慣が日本人のDNAとして我々には埋め込まれてきたような気がする。

 最近でこそ、そのような伝統的な日本人のコミュニケーション・スタイルは、海外子女の増加や海外旅行や外国映画などを通じて、とりわけ若い日本人を中心に一部の日本人の間では欧米化スタイルと変貌しつつあるのも事実であろう。

 しかし、広範囲な純粋な日本人社会においては、依然として既述したような日本人の言語習慣は日本社会や日本人には深く根付き、日本人間のコミュニケーション場面では、当然のよう期待され踏襲されているように思われる。

 筆者が危惧するのは、そのような日本人のコミュニケーション・スタイルは、英語を自ら話す場合にも、英語通訳を介して日本語で話す場合にも、時として相手側の外国人には危険な誤解を与えかねないということである。


(2)日本語の曖昧さがもたらす危険な誤解
 経済のグローバル化の進展とともに一段と加速しつつある国内外の多種多様な一体化現象は、日本においても国際政治や外交といった従来の限定的な分野に留まらず、我々にとってより身近なビジネス社会へと大きなうねりとなり押し寄せてきている。

 このような経済構造の急変現象は、日本語だけを話していれば事が足りる国内市場対応のビジネス・モデルから、海外市場対応のビジネス・モデルへと大きく舵を切る経営転換を多くの日本企業経営者に対して余儀なくしているのが日本の現状である。

 今まで以上に英語を主体として、非母国語で議論したり、交渉したりする必要性が一般のビジネス場面でも急増していることは間違いない。それは同時に、コミュニケーション・ギャップが方々で発生するリスクが急増していることを意味する。

 日本の国民性的文化の特徴の一つとして「曖昧さ」があげられる。白黒をつけない、勝ち負けをはっきりさせないで、結果的に勝負や交渉事に勝つという考え方であり価値観である。

 相手を非難しない、反論しないという手法は論争の焦点をぼかすということにつながる。いきおい、相手側の肯定的解釈に結論を委ねる面が大きくなる。

 その結果、相手の解釈とこちらの解釈に大きなズレが生じ、双方全く異なった結論をお互い合意事項だと誤解してしまい、後々大きな火種となり、後世に深刻な問題を残す結果になりかねない事態を招くこともあり得る。

 「曖昧さ」がもたらすこのような危険性は、当事者間に共通した価値観、文化的・歴史的共通認識、そして何よりも日本的な非論理的な価値判断基準をどれだけ理解し共有しているかの度合に大きく左右される。

 つまり、相手側の立場や考え方などに対して十分確立された共通認識を根底および前提にして、「あいまい」な言語表現を使う話者は、相手の反応や理解度、反応度を事前に察知、想定したうえで、あえて直接的で明快な言語表現をしないわけである。

 それは自分の意見を曖昧な表現を駆使して伝えるという、非常に脆弱で誤解を容易に招きかねない危険度の高い「意思疎通手段」を駆使する日本独自の言語慣習と言わざるを得ない。

 さらに悪いことに、「負けるが勝ち」とか「潔さ」といった、言い争うこと自体が良くないことで、議論などせずに相手にしないことが「立派な振る舞い」だとするような社会的な認識が、日本人のDNAとして我々の頭のどこかに埋め込まれているような気がする。

 日本人同士での議論や交渉場面なら、まだ、このような「腹芸的な方法」は、場合によっては功を奏することがあるのかも知れない。それでも、最近の若い層を中心としたビジネス現場や社会では、必ずしもそうとは言い切れない。

 そんな前近代的な「腹芸的コミュニケーション」は、日本社会ではいまだ多くの場面で散見するが、一番顕著なケースが、冒頭にあげた事例のように政治家の発言だろう。

 本来、国際間の交渉という国際的な見地に立っての外交手腕や国際的視野に基づいた国家的政策の実現能力が問われるべき政治家こそが、国際感覚に基づいた、論理的で明解な日本語を発するべきであるのにもかかわらず、我が国の政治家には、そのような素養は見られない。大戦後、日本は米国の庇護のもとに外交能力や国際感覚などがほとんど必要とされてこなかったという日本の歴史的事情も影響しているのかも知れない。

 そんな特殊要因も加わり、日本の政治家の発する日本語は、現代の我々、標準的な日本人にとっても分かりづらく、空疎で意味のなさない、言葉遊戯的な特殊言語と言わざるを得ない。


(3)意味不明な日本語発言は、国益さえ損ねる
 鳥飼久美子著『歴史を変えた誤訳』によれば、日本に原爆投下を招いたのも、時の首相が公言した、真意を測りかねる日本語に対する(結果的な)誤訳が原因となった可能性がうかがえる。

 以下、同書を参考にして、異文化コミュニケーションにおける日本語の曖昧表現の危うさについて検証してみよう。

 大戦末期に、ポツダム宣言が発表され、日本へ無条件降伏を要求された時に、当時の首相は、「静観したい」という意味のことを世間から弱気に見られたくないがために「黙殺する」という言葉を使い、記者会見で言明したそうだ。

 それを当時の同盟通信記者が “ignore”(無視する)と英訳したのを、連合国側が “reject” (拒否する)と解釈した結果、それから10日もたたぬうちに広島に原爆が投下されてしまったという。

 『ベルリッツの世界言葉百科』には、「もしもたった一語の日本語を英訳する仕方が違っていたら、広島と長崎に原爆が投下されることはなかったかもしない」とある。

 さらに、より近時の政治家によるコミュニケーションの失敗例を挙げるなら、1970年にワシントンで行われた「佐藤・ニクソン会談」がある。

 当会談の主要議題は、当時、日米貿易摩擦の原因となっていた日本からの繊維製品輸出問題であった。

 当時、米国内で火種となっていた日本繊維製品の輸出急増に対して、ニクソン大統領は繊維輸出の自主規制を日本側に求めてきた。

 それに対して、佐藤首相が「善処します」と答えた発言に対する通訳内容が、後に日本の国益を損ねるほどの大問題に発展してしまったのである。

 どのように通訳されたかは諸説があり、”I will examine the matter in a forward looking manner.”とか、”I will do my best.”とか通訳されたと言われている。

 いづれにしても、佐藤首相の日本語は、標準的な日本人にさえ、「玉虫色の政治家表現」とされる発言内容である。

 また同書によれば、コミュニケーション理論の専門家のディーン・バーランド氏は、『佐藤首相はニクソン大統領に対して「話は三割、あとの七割は腹芸でいきましょう」と提案し、言葉でははっきりとは説明しなかったものの、アメリカの繊維業界に対しては理解を示した』と述べている。

 一方、ニクソン大統領は、佐藤首相が米国側の状況を理解してくれたのだから、日本は自主規制をやってくれるに違いない、と判断してしまったそうだ。

 こうして、ニクソン大統領の方は、日本への沖縄返還の見返りとして、日本側は繊維輸出規制をすると思い込んでいたのである。

 ところが、米国は沖縄返還の約束を果たしたのに、いつまでたっても繊維輸出規制をしない日本に対し、騙されたと憤慨したニクソン大統領は日本に対し二度にわたり逆襲に出たのである。
 
 一つは、1971年7月、日本へ事前通知をしないままで米中国交回復の突然発表であり、いまひとつは、1971年8月、「新経済政策」としてニクソン大統領が発表した、関税の一律10%追徴とドルの切り下げ発表であった。これは明らかに日本をターゲットとしたものであったと言われている。

 驚くべきことは、これほど深刻な結果を日米両国にもたらしたにも係らず、生前、佐藤首相もニクソン大統領も、そのコミュニケーション・ギャップの原因を理解していなっかたとされる事実である。

 当時は、通訳者の誤訳とされていた見方が大勢であったようであるが、真相は、異文化コミュニケーション・ギャップによる誤解が主因であったとされている。


(4)英語より日本語が大事
 このような通訳上のミスの重大性を認識してかどうか分からぬが、一時期、日本では英語を日本の公用語にしてはどうか、といった極端な事を言い出す学者も出現した。

 しかしそんな極論を言い出す前に、母国語である日本語による時代遅れな言語習慣を時代に即したものに正すべきである。

 自国の文化を大事にし、尊重することは決して悪いことではない。国語教育の重視や改善も提唱されて久しい。しかし国語の教科書に使用される旧態然とした古典的な文学作品を通じての国語教育や過度に文学的表現に偏った日本語に焦点を当てた国語教育では、21世紀に必要とされる、誤解のない日本語の駆使能力の習得は期待できない。

 時代の変遷に即して政治家が駆使する日本語の表現方法を改善しないのなら、我々一般市民が先んじて分かりやすい、グローバル化に対応した現代的な日本語を習得し駆使していけば良いだろう。そうすれば、彼らも時代遅れな日本語の言語慣習を改めて我々に追従してくるに違いない。(了)



公募増資インサイダー取引事件とJ-REIT

~公募増資インサイダー取引事件はJ-REITにとって「対岸の火事」ではない~

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸(おかもと ひろゆき)

 「J-REITに求められるコーポレート・ガバナンス」と題して、セミナー講演を行う機会が4月と6月にあった。内容的に奥の深いテーマを数多く扱ったせいか、3時間のセミナー時間が短く感じられた。

 そのセミナーの中で、講演者である筆者はJ-REIT(不動産投資信託)の資産運用会社(以下、「運用会社」という)におけるガバナンス体制のあり方やコンプライアンス体制のあり方などについて解説するとともに、運用会社が行うIR業務に関連したガン・ジャンピング問題(有価証券届出書の提出前の勧誘禁止規制)とJ-REITのインサイダー取引を取り上げた。

(1)法令等の改正
 金融庁は、現在、J-REITの資金調達手段を広げ、従来の投資口(企業の普通株式に相当)や投資法人債(社債に相当)に加えて、株主割当増資や新株予約権付社債(転換社債)の発行解禁の検討を開始している。さらには、インサイダー取引規制の対象にJ-REITも含める方向で関連法令の改正を行う予定である。

 このような金融庁のJ-REITに関する法令の改正動向を鑑みると、今後、投資法人による資金調達は多様化し、活発化することは容易に想定されるところである。それに伴い運用会社に今後、一層期待される役割は、投資法人に対するより専門的でより高度な資金調達支援でありIR業務である。

 運用会社による投資法人に対する資金調達支援業務もIR業務もともに、有価証券の「発行市場」に密接に関連してくる業務である。運用会社がより「発行市場」に係ってくるということは、「発行市場」における様々なプレーヤー達とも接触する機会が増えることになる。つまり、ガン・ジャンピング問題やインサイダー取引が発生しやすい領域により踏み込むことを意味する。

 したがって、運用会社が行うIR業務に関連したガン・ジャンピング問題、ならびにJ-REITのインサイダー取引はコンプライアンス上、対応すべき重要課題として、今後、浮上してくることは間違いないであろう。


(2)運用会社のコンプライアンスに死角はないのか?
 運用会社は、有価証券の発行者ではなく主幹事証券会社でもない、J-REITはインサイダー取引規制の対象にはならない、といった慢心と安心感により今の運用会社の社内管理体制にコンプライアンスからの死角は生じていないだろうか?

 IRの起源は、1953年に米国のGE社が社内にIRの名を冠した部署を創設したことによるが、日本の上場企業がIRに関心を示し始めたのは、1980年代の中ごろと言われている。日本においては、いまだにIRとPRの混同さえ一部では見られ、投資家や社会全体においてもIRに対する理解や重要性の認識が十分に浸透しているとは言えない状況が続いているようだ。

 J-REITのIRは、通常の上場企業のIRとは、多少、異なった業務経験や法令知識などが要求される分野である。大雑把に言ってしまえば、有価証券の発行者である投資法人の資産運用を受託している立場の「運用会社」が投資法人のために行うIRは、宅地建物業法等に加え、金融商品取引法、投資信託及び投資法人に関する法律、投信協会規則、東証上場規則、さらにJ-REIT市場動向等を踏まえ、投資家へ必要事項を説明するという多種多様な専門的知識と業務経験が要求される分野である。

 J-REIT市場は昨年、創設10年を迎えたものの、J-REIT業界は市場拡大のスピードと比して、人材の面で供給が需要に追い付いていない側面がある。J-REIT市場は、「金融と不動産との融合」という掛け声で設立された市場であるが、運用会社の経営陣や従業員は圧倒的に不動産業界出身者が多く、金融業界出身の者が少ないようだ。

 運用会社には不動産に対する知識や経験も当然必要とされるが、それと同等かそれ以上に金融業務に係る知識や経験が必要とされる実務的場面が多い。近い将来、投資法人による資金調達の多様化が実現することが予想される。それに伴い、投資法人による資本市場を通じた資金調達の機会も増え、今まで以上にIRの優劣が投資法人の投資口等に対する株主や投資家の評価に影響を与えることが予想される。

 IRの活発化は一方では、運用会社が潜在的危険ゾーンである「有価証券発行市場」領域にさらに踏み込むことであり、コンプライアンス違反が発生する可能性が拡大することでもある。真っ先に想定される違反行為としては、「ガン・ジャンピング」(有価証券届出前に勧誘行為を行う違反行為)があげられる。

 運用会社が投資法人のために行うIR業務は、ここでいう「勧誘行為」と類似した行為内容を含む一連の業務行為である。どのような行為が届出前の勧誘禁止規制で禁じられる「勧誘」に該当するのかという基本的な重要問題に対しては、当局による体系立った明確なガイドラインは、今のところ公表されていない。法令上の定義条文も存在しない。

 従って、現場での対応策としては、断片的に公表されている関連資料等をつなぎ合わせ、社内でも管理体制について十分、議論を重ねたうえで、出来る限り実効性のある社内管理規程などを作成するとともに、その内容を社内で周知徹底することを事前に押し進めておくことである。

 一方、IR業務は、一歩間違えば、一部の者に公表前の情報を提供してしまい、インサイダー取引と同様な不正取引の機会を何者かに与えてしまうリスクを孕んだ行為である。

 繰り返しになるが、金融庁は上述した投資法人の資金調達の多様化に対する検討と同時に、投資法人の発行する有価証券も金融商品取引法上、インサイダー取引規制の対象となる有価証券に組み入れる方向で検討を開始している。

 資金調達の多様化の実現と同時に投資法人の有価証券もインサーダー取引規制の対象となるのは時間の問題であろう。


(3)「公募増資インサイダー取引事件」は、「対岸の火事」ではない
  上記セミナーを通じて筆者が強調したかった点は、今年の3月頃から新聞や雑誌の誌面を賑わしている「公募増資インサイダー取引事件」は、J-REIT関係者、運用会社にとっては、決して「対岸の火事」ではないということである。

 
 当事件の中核的な発生原因は、上場企業の増資情報をいち早く掌握できる立場にあり、また、増資の発行手続きを実施的に取り仕切る立場にある主幹事証券会社の営業員が未公表の増資情報を不正に顧客投資家に伝えたことによる。

 コンプライアンス管理の観点から当事件を端的に捉えるならば、主幹事証券会社内における引受部門と営業部門の間の情報隔壁(いわゆる、チャイニーズ・ウォール)の管理不十分、関連社内規則に対する社内周知の不徹底が主因と言える。このような社内の情報管理体制を構築し、実効性を高め、万全を維持するのは決して容易なことではない。

 この事件の構図をそのまま、J-REITに当てはめてみると、主役の主幹事証券会社の立場はそのまま残るが、上場企業に該当する投資法人と資産運用委託契約を締結している運用会社が、有価証券の発行者である投資法人とだけではなしに、主幹事証券会社と密接不可分な関係を維持しながら、今回、公募増資インサイダー取引の温床となった、有価証券の「発行市場」近くに位置していることに気がつく。

 投資法人が行う増資などの資金調達(ファイナンス)には、実務的には、運用会社の方が有価証券の発行者である投資法人よりも深く係ってくる。一般の上場会社の増資などとは異なり、発行者ではない運用会社が主幹事証券会社とともにファイナンスを企画・実施するという業法的制度が、一層、J-REITのファイナンス準備期間におけるコンプライアンス・リスクを増幅させる要因にもなっている。

 以上のように今後のJ-REITに係る関連法令等の改正の将来的な流れを見ていくと、今回の一連の公募増資インサイダー取引事件は、J-REIT関係者や運用会社にとっては、決して「対岸の火事」ではなく「隣家の火事」なのである。(了)

ボナ植木著『魔術師たちと蠱惑のテーブル』を読んで

 コンプライアンス・アドバイザー  岡本展幸

 人の心は何によって癒されるのだろうか?それには音楽があり、エンターテインメントがあり、そして小説がある。著者は言わずと知れた高名なマジシャンであり、最近は、ジャズとマジックのコラボライブ「ジャマライブ」も手掛け、ジャズバンドのボーカリストもこなす。

 そして、今回、小説の出版を果たした。これで、人の心を癒す三分野をすべて制覇したことになる。つまり、マジック、ジャズ、小説である。今回、出版された小説は、13の物語から構成され、最終的に全体で一つの小説として成立するユニークな構成を採用している。各物語はそれぞれが独立したストーリーで完結しているので、別々に順不同で読んでも十分、楽しめる内容だ。

 しかし、読者は各物語を読み進んでいくうちに、各物語の根底には、著者の拘りと感性に裏付けられたジャズのメロディーが流れ、マジック・ファンタジーが通底しているのが著者の織りなす言葉群から感得されるはずだ。各物語の冒頭にエピグラフのように付けられた「推奨BGM」、そして、時折、顔を出す大物マジシャンのランス・バーリントン。そして、何よりも著者に一番影響を与えているのは、この本の最初にも記載されている故星新一であることが本を読み終えた後に感じとれる。

 つまり、この小説は、ショート・ショートなのである。ショート・ショートとは、400字詰め原稿用紙にして10数枚程度の短い小説形式のことで、著者が敬愛する、日本SF文学の旗手と呼ばれた故星新一が得意とするものであった。

 この小説は、故星新一の「ショート・ショート」を踏襲し、そのわずか原稿用紙にして10枚ほどの文章の中に、一つのストーリーを作りあげ、それを13編にまとめ、一つの小説にしているのである。内容的には著者独自の世界がそれぞれの物語の中に出現し、読者はジャズのメロディーに耳を傾け、マジックのファンタジーに惑わされ、そして各物語の最後には決まって期待を裏切られる結末が待ちうけており、読者は自分の期待とは裏腹に打ちのめされたり、ほっとしたり、時には涙ぐんだりするのである。

 「何故、マジシャンが小説を?」と思う者がいるかも知れない。しかし、その謎はこの本を読めば複雑に絡み合った何本かの糸が一瞬にして解けるように解明する。

 「ショート・ショート」が普通の小説のように長くはないように、マジックも映画やコンサートなど他のエンターテインメントのように長時間に及ぶものではない。「ショート・ショート」もマジックも、短時間の勝負である。その短い時間、狭い空間の中で、いかに読者や観客を惹きつけ、ハラハラさせ、感動させ、気持ちや期待感を最高潮まで持っていき、最後になって、今度はジェットコースターが最高度の地点からいきなり落下して下っていくように、一気に読者や観客の期待とは正反対の結末へ如何にとうまく持っていけるかに、実は「ショート・ショート」もマジックも勝負はかかっているのである。正に一発勝負の名人芸である。

 そう考えてみると、マジック界の第一人者であるボナ植木氏が優れた「ショート・ショート」を書いても何の不思議もないことに思いあたる。

 著者は今年、還暦を迎えた。その今までの長き人生の中でマジックを通じ「ショート・ショート」の技法に磨きをかけ、「ショート・ショート」を通じマジックの腕を上げてきたのに違いない。

 この小説は、「ショート・ショート」を誰よりも愛し、日本最高峰のマジシャンとして生きてきた著者でなければ書けない小説である。この小説が既存の型にはまり切れずに、どの小説ジャンルにも分類し難いのは、著者の創造的感性の領域が既成の小説概念を越えているからである。言い方を変えれば、著者の感性を凌駕する「ショート・ショート」の書き手が今まで存在しなかったと言っても良いだろう。

 マジックを愛し、ジャズを愛する人、そして何よりボナ植木を愛する人たちに是非、薦めたい小説である。(終)

閉ざされた思考空間~専門家への過信~

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸(おかもと ひろゆき)

 日本において明治以降、近代化とは西洋化することであった。明治時代にはヨーロッパの主要国英独仏を見習い、戦後はアメリカを見習うことが近代化であった。欧米語で書かれた書籍から欧米文化を日本語へ翻訳し、それを日本社会へと取り込むことが近代化だと考えたのだ。

 今となってみると、そのような一方的な西洋化現象は、我々の社会を歪め、解決すべきさまざまな課題を現代にもたらしている。

 教育メディア研究等を専門にする日本大学文理学部教授の小笠原喜康氏によれば、日本は、工場で働く人間を作ることを最大目的にした明治以来の「近代教育」を、戦後においても変えることなく継続した。そのための重要な学力は「時間を守る道徳」と「自分で考えない力」の二つであった。
(小笠原喜康『新版 大学生のためのレポート・論文術』)

 この近代教育の話がその通りに実行されたのであれば、その結果もたらされた深刻な社会的弊害は、「自分で考えない力」を有する国民の大量生産である。

 自分で考えることができないということは、第三者の言うことの是非を判断することができない、ということである。当然、自分の考えを言語化することもできない。自分の考えを言語化できなければ、自分の意見を相手に述べることもできないし、相手を説得することもできない。ただ黙って頷くか、相手の言いなりである。

 これでは、第三者とまともな意思疎通をはかることはできない。さらに、物事の良し悪しを判断することもできなければ、相手の言うことに対して論理的に反論することもできない。
 
 「自分で考えない」ということは、物事に対して深く思考しないので、物事の裏にある真理を追究しようともしない。つまり、物事の表層だけを信じてしまい、物事の深層に隠された真実を理解しないことになる。

 まだ、自分は深く考えていないということを自分で意識しているうちは、その深刻さに改善の余地が残されているかも知れない。問題なのは自分では考えていないという事実すら認識できずに、あたかも自分で考えて判断したような錯覚に陥り、第三者の言うことをそのまま信じてしまい、平然として毎日の生活を送っている状態である。

 我々は、「近代教育」の「自分で考えない」という誤った教えに今も忠実に従い、自分の人生や世の中を左右するほどの重要な問題について思考を停止していないだろうか。そして第三者の意見を少しも疑うことなく、そのまま安易に信じて受け入れてしまうことを無意識のうちに続けていないだろうか。

 最近、「専門家」がテレビに出演して意見や解説する機会が増えている。それも報道番組のみならず、ワイドショー番組まで頻繁に出演するようになってきている。ここでいう専門家とは、社会的な権威があり、社会的に影響力がある大学の教授であり、弁護士であり、医師などである。

 彼らを個人的に攻撃するつもりはないし、彼らの言っていることを全て否定するつもりもないが、なかには専門家という肩書を使い本来の自分の良く知らない問題のことまで知っているかのように振る舞う者がいる。

 専門家とは自分の専門分野の狭い限られた領域についてのみ発言権が与えられている立場の者である。専門家として発言する場合には、あくまで自分の専門分野の専門知識に基づき限定的な意見だと断ったうえで発言するべきである。専門家は本来、自分の価値観や思想を専門家としての立場では語るべきではないはずだ。それが専門家としての責任であるし、専門家のあるべき姿だ。

 宇宙物理学者で名古屋大学名誉教授の池内了氏は、科学者と社会について次のように述べている。
「社会のことを決めるのは市民。科学者や技術者ではありません。市民が判断できる材料を出すのが科学者の社会的責任です。しかし、科学者は研究費欲しさに政府やスポンサーばかり見て、納税者という本来のスポンサー、市民の顔を見て語ってこなかった」(2012年3月10日付日本経済新聞夕刊)

 さらに、池内氏は科学者の傲慢さについてこう述べている。
「科学者は自分の専門の狭い領域について知っていても、それ以外のことについては無知。にもかかわらず、自分が知らない問題についても知っているかのように振る舞い、専門家にありがちな傲慢さが抜けきらない。スペインの文明史家、オルテガは1930年に名著『大衆の反逆』で、これを科学者に潜む野蛮性として批判しています。これはいまの科学者にもそのまま当てはまります」(同上掲新聞)

 「群盲、像をなでる」という言葉のとおり、物事の捉え方や考え方は、全体のどこの部分に視点を置いているかで大きく変わるものである。

 京都大学大学院人間・環境学研究科教授の佐伯啓思氏は、像の全体像を指し示すのが「知識人」であり「専門家」の仕事ではないのに、現代では、専門家が自分のなでた部分を全体にまで拡大して知識人になろうとしている、と警鐘を鳴らしている。(佐伯啓思『学問の力』)

 「知識人」になることは決してたやすいことではないが、傲慢な専門家がなでているのは像の全体ではなく、像のある部分だけだと分かるくらいの知識と判断力は我々も身につけておく必要がある。

 現代の社会情勢は、猫の目のごとくめまぐるしく変革を続け、情報技術をはじめとした科学技術の進歩はとどまる所を知らない。科学や技術が複雑化し専門化すればするほど、我々は「専門家」に阿り、全ての判断を彼らに委ねたくなる誘惑に駆られる。

 しかし冷静に考えてみると、自分の人生や将来については、自分以上に真剣に考え、理解している者はこの世にいないはずだ。専門家とは、特定の分野における課題を特定な視点から眺め、特定な結論を導き出すことを生業とする者である。専門家は、万人に共通した、あるいは万事に有効な解答を有しているわけではない。

 これだけ科学や技術が細分化し高度化している現実社会で、一人の専門家が社会全体の問題をすべて理解していることは不可能に違いない。勝手な論理を振りかざして自分の専門外のことまで正論ぶって話す専門家の意見を盲信していては、物事の真実を見出すことはできない。

 社会問題に対する良し悪しの判断は、本来、我々ひとりひとりが自ら考え、自らの結論に至る過程を通して到達する必要がある。そのためには、日々の思考と経験を重ねることにより、自分で像の全体の輪郭が描けるだけの知識と知恵を蓄積することがどうしても必要になる。そして、時には「専門家」と称する者たちの意見をそのまま機械的に受け入れることをせず、自分の頭に蓄積された知識と経験と知恵に照らし合わせて、彼らの意見に対して反証してみることだ。

 そのように、常日頃から自分の頭で考え、自分で判断する習慣を養い、それを実行していけばある程度の「知識人」となり、自分に必要な像の全体像は描けるはずだ。そうでなくてはならない。(了)

IT革命は、知的空間をどう変えるのか?

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸(おかもと ひろゆき)

 IT革命が叫ばれて久しい。PC、 iPhone、iPadに象徴されるように、ここ10年、いやここ数年における電子情報技術に関連した変革のスピードや内容は、まさに革命といえるものだ。

 さて、知的空間(「知的生活」というと、やや古典的な匂いがしてきてしまう。)といえば、本があり、ペンがあり、ノートがあった。「あった」というのは、それが過去の存在になりつつある様相を呈しはじめているからである。

 もちろん、それらがすべてこの世から無くなってしまうわけではないだろうが、それらに代替可能な「モノ」が出現しつつあるからだ。

 まず、ペンとノートに代わる「モノ」として、パソコン(PC)がある。キーの打ち方さえ覚えてしまえば、ペンで書くより便利だ。忘れた漢字も候補の漢字群の中から選べば良いし、書いた文字の消去、修正も簡単に綺麗にできる。それにいくらでも一度書いた文章の修正や組み換えが瞬時に可能だ。

 そして、「電子書籍」なるものが出現しつつある。タダ同然にして、芥川龍之介も夏目漱石も太宰治も、そして、ドストエフスキー、カフカも自分な好きな時に、好きな所で、好きなだけ味わうことができるようになったのだ。英語による書籍もしかりである。

 従来、手の指で本の紙質を触感し、本のページをめくるごとに、時折ほのかに立ち上がり、臭覚を刺激する本特異なインクの匂いや、かすかに聞こえてくような本の旧所有者たちの囁きなど、といった年寄りの化石化したノスタルジーとは無縁の印字の世界が、PCやiPadのスクリーン上に「電子書籍」を通じて広大に展開されてくる。手のひらに載る小さなiPhoneでさえ、同様なことができる。

 このさい年寄りにつきものの、目の疲れや肩こりなどのぼやきは、とりあえずここではわきに置いておくことにしよう。

 電子書籍化されている書物の数は、とりわけ日本では、まだ限界があると言われるものの、日本とてほとんどの書物や学術論文が電子書籍化されるのは時間の問題と考えたほうが現実的だ。そう考えると明らかに我々の知的空間が大きく変わろうとしていることに間違いないだろう。
 
 このような大きな変革を肯定的に捉えれば、知的空間における我々の作業が格段に簡素化し、また、高度に能率化できる可能性が増幅しつつあると言えるだろう。それに伴い、我々の知の創造も知の集積も過去にない速さで達成できるのかも知れない。

 最近、私は自分の身をもって、その実験を始めている。とは言うものの、今書いているこの原稿の素案は、手触りのよい黒皮の表紙で包まれた年代が古いダイアリー・ブックに、ドイツ製のラミーの万年筆で書いたものだ。
  

 どうも少なくとも私の場合には、何かまとまったものを書こう、書きたいとする時は、まず、テーマが突然、頭に閃き、それから、わずかな泉が山の斜面から少しずつ湧き出て地面を這っていくように、テーマに関連した言葉がひとつ、ふたつと頭の中に湧き出てくる。

 その湧水が何処かに流れ出て地面に吸い込まれて姿を消さない前に、そして、そのわずかな湧水をこぼさないように、注意深く少しずつすくい上げていくには、PCやiPadが起動に要する数分の時間さえも許してしまうと、湧水はたちどころに何処かへ吸い込まれ、蒸発してしまうのだ。

 この一連のプロセス、つまり、テーマが閃いたらすぐにPCかiPadのキーボードに向かい、繊細に滲み出てくる湧水を両手ですくい上げるようにして、テーマに関連した思考の言の葉を一つ一つ素早くキーボードへと打ち込みながら、体系立ったなだらかな「言葉の流れ」に落とし込んでいくという一連の作業をデジタル化するのが私の実験である。

 自分に課したIT実験がうまく進んでいないのを良いことに、ふと、以前に読んだ本の一説を思い出した。少し長くなるが、該当箇所を引用してみる。

  「漢字文化の中で育った人間は、タイプ入力と仮名漢字変換に頼りすぎると漢字が書けなくなり書くことを通じて思考する力が減退する危険にも直面しています。

 (中略、筆者)漢字は有意の偏旁冠脚の組み合わせを劃することで形と意味とを作ります。つまり、書くことは形による意味形成という思考を常に要求します。ところがキー入力による仮名漢字変換では、この形=意味の形成作用を働かせることがありません。当然、漢字の書記能力が落ちてきます。漢字を書くという作業は深い思考作用を促します。こういう理由で本書第1章では、読書ノートをつけるときには手で書くことを薦めています。」
(佐良木 昌『Wordを使った大学生のための論文作成術』)

 
 書家で京都精華大学教授の石川 九楊は、同じようなことを述べている。
『アルファベットからなる音声言語である欧米の言葉はワープロに転換し  
たところでさほど問題はないが、日本語や中国語は漢字を直接打ち込めず、筆触を伴う「書く」行為の代用にはならない。それがわかっていないから混乱が生じる。』平成24年5月2日付日本経済新聞(夕刊)

 高度な情報処理能力を備えた革命的電子機器は、基本的には、アルファベット文化に基づくタイプ入力を前提に設計されている。そんな舶来品の機能が、漢字文化の中に生まれ、育った人間に対しては、身体機能のどこかで不具合をもたらすのは大いにあり得ることだ。

 そんな不都合があるからと言って、漢字文化人の我々は昔に逆戻りして、手書きの通信手段や紙製の書物だけに頼るのは現実的な解決策とはならない。ここは、佐良木も学生たちに薦めているように、タイプ入力と手書きを併用してみるのが現在のところ最善策だろう。

 そう考えると、最近、私の漢字に対する書記能力が落ちているは歳のせいではなく、自分のITリタラシー(IT駆使能力)が高くなったことが原因とも言える。また、日本人である私の思考能力の維持・育成には、黒皮のダイアリーとラミーの万年筆が功を奏しているのかも知れない。
(了)