日本人のコンプライアンス意識 (2)

 コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸(おかもと ひろゆき)

 日本人の法観念に対しては、川島武宣の「伝統的に日本人には『権利』の観念が欠けている」(『日本人の法意識』1967年)とする言葉に代表されるように、従来、日本と西洋との国民性を対比してその違いから日本人の法観念を語るというのが川島含めた一群の法社会学者による通説であった。

しかし、法学者の大木雅夫はそのような日本人の法観念に対する通説に対して、異論を投げかけた。

 大木は、極東と西洋との比較を通じて日本人の法意識や法文化を歴史的に検証し、日本人の権利意識は脆弱とするなどのそれまでの説を以下のように否定したのである(『日本人の法観念―西洋的法観念との比較』1983年)。

 大木は、鎌倉時代の恩顧や奉公の道徳が過度に強調され、江戸時代の義理人情の美風があまりにも喧伝されて、日本の法文化を義務中心の法文化とはしていないのか、という疑問を投げかけている。

 また、日本人の法観念の形成過程を考える際に儒教を西洋におけるキリスト教と対比するのは誤りであり、不争の徳や万物斉同の節を唱える道家の思想や慈悲忍辱を説く仏教の精神など諸宗教との文化的雑種性を考慮すべきであるとも述べている。

 大木は従来の説で定説化しつつあった東洋の徳治主義に対する西洋の法治主義でさえ、その精神は日本においても鎌倉時代の「御成敗式目」にすでに現れていたとし、その制定を命じた北条泰時の書簡や事蹟、あるいは起請文に見られる思想的基礎は、法の支配の原理であったとしている。

 大木は、日本人は脆弱とされてきた権利意識に対しても、多くの訴訟記事が掲載されている鎌倉時代の『吾妻鏡』や江戸時代の農民一揆を例に挙げて、日本人の権利意識はむしろ高いくらいだと否定している。

 さらに、大木はホセ・ヨンパルトの「国民性は、人間と同じように固定化されたものではなく、歴史的にどんどん変化していくものと考えるべきである」(『にんげん研究ニッポン人』)との言説を引用して、日本人の権利意識が一般的に委縮したのは明治以降に求める方が真実に近いとすら思える、と述べている。

 その根拠として、かつて高かった民衆の権利意識が一層高まりを見せた時に、その対策として労働関係調停法、小作調停法、借地借家調停法といった各種の調停法が近代的司法制度に組み入れられ、それが効果的に民衆の権利主義を歪曲し委縮させたにすぎないのではないか、としている。

 そして大木は結論的に次のように述べている。
「史実の示すところによれば、政治的・経済的・社会的諸状況が日本の独特の法制度を生み出したのであり、それらの諸状況に対応すべき裁判組織の未成熟が日本法の発展や日本における法観念の形成に重大な影響力を及ぼしたように思われる。これらを無視して、儒教道徳や前近代的法意識に結び付けることは観念論的であり、日本法の真の姿を歪曲化する。」

 つまり、大木は(日本人の)法観念や法意識の形成に最も影響を与えているのは、いかに権利実現の装置、すなわち司法制度が組織化されているかという問題だと喝破した。ある調査結果をあげ、簡易な紛争解決手段が発達している国であれば、洋の東西を問わず権利意識の強弱には関係なしに人々は簡易な方法で同様の目的を遂げようとするものだ、と述べている。

 大木は、「民衆の低い法意識に対する嘆きは、民衆の側からではなく法律家側から発せられている。そして、『権利のための闘争』とは『典型的に法律家の考え方』である。それにもかかわらず法律家が法制度の現状に満足しているのであれば、法律家自身の責任を果たしていることにはならず、まさに法律家自身の法意識がまず問われなければならない。」と戒めている。

 日本人の法意識に関する論争はいまだ続いているようであるが、1978年8月の三重県鈴鹿市「隣人訴訟事件」をめぐる世間の反応は、日本人の特異な法意識の一面を確かに照射しているように思われる。

 この事件の概要はこうだ。母親が買い物に出かけて留守をしている間に幼児が近くのため池で水死した事故をめぐり、幼児を亡くした夫妻がため池を管理していた行政(国・県・市)、ため池の土砂を採取した建設業者、そして、幼児の両親が子供を預けた近所の夫婦を相手どって損害賠償請求の訴えを起こした。この訴えに対して津地方裁判所は、近所の夫婦についてのみ過失を認めて慰謝料などの支払いを命ずる判決を言い渡した。

 このような判決内容に対して、各新聞は、「無償の善意に賠償責任」、「親が留守中の幼女水死 預かった側にも責任」、「幼児のため池水死事故 好意で預かっても責任」、「無償の善意にも監督責任」というような見出しで、全国紙が大々的に報じた。中には「隣人の好意につらい裁き」という大きな見出しをつけたものもあった。

 このような事件報道に対して日本社会は次のような反応を起こしたのである。隣人を訴えた原告の夫妻のもとに全国から非難といやがらせの電話や手紙が殺到した。そのため、原告夫妻は社会的な非難に耐えかねて訴えを取り下げようとした。一方、被告側の夫妻は、当初、あくまで争う姿勢を見せていた。そのため、原告夫妻が訴えを取り下げようとしても、被告夫妻が控訴していたので取り下げることができなかった。

 引き続き、そのことが報道されると、今度は被告夫妻にもいやがらせの電話や手紙が届くようになり、被告夫妻も控訴の取り下げに同意せざるを得なくなった。

 こうした事態を受け、法務省は「裁判を受ける権利は、どのような事実関係であっても、国民の権利を保障するための有効かつ合理的な手段として近代諸国においてひとしく認められている最も重要な基本的人権の一つである。これが侵害されるに至ったことは人権擁護の観点から極めて遺憾である」旨、見解を発表した。(1983年4月8日)

 このような日本社会の反応を我々はどのように受け止め、理解したら良いのであろうか?やはり、日本人の意識の根底には、「法」という西洋から輸入したルールだけでは「線」の引けない「心理的領域」が存在するのではないだろうか?

 あえて飛躍的に結論めいたことを先に引いてしまえば、昨今の日本企業による不祥事は、「法」という西洋型ルールを意識的にも無意識的に重視しない日本人の法意識や倫理観が潜在的に起因しているのではないだろうか?そして、このことは大木の言うように、現行の司法制度が十分に現在の日本社会の実情に沿って組織化されていないことの証左にはなり得ないのだろか?

 もしも上述したような仮定が実証されるのであれば、司法制度を一般市民にとってより使い勝手のよい制度に改善する必要があるだろう。

 一方、オリンパスのような不祥事を結果的に引き起こすきっかけとなった日本人経営者の究極的決断の基準は、おそらく「法」を越えたところに設定されているのではないだろうか?決してトップ自らの利得の目的ではなく「会社のため」、延いては「従業員のため」といった純日本的な、あるいは非西洋的な「大義名分」があったはずだ。

 「法的」には確かに「黒」(犯罪)であろう。しかし、そのような日本人経営者は、究極的な経営判断の状況下においては、西洋型ルール(法)よりも、自らの倫理観と信念を優先するのかも知れない。

 もしもこのような日本人経営者の倫理観を是とするのであれば、そのような非西洋的な思想や価値観を現行の西洋型ルール(法)にも反映し合法化するように法改正をするしかないのだが、一方で、経営者側の経営判断にも時代に即していない旧態然としている側面があったことは否めないだろう。



(参考文献)
川島武宜『日本人の法意識』2008年
大木雅夫『日本人の法観念―西洋的法観念との比較』1983年
青木人志『「大岡裁き」の法意識―西洋法と日本人』2005年
中川剛『日本人の法感覚』1989年




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日本人のコンプライアンス意識(1)

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸(おかもと ひろゆき)

日本国内において「コンプライアンス」という言葉が、新聞やテレビなどのマスコミを通じ一般社会で耳目を集めはじめたのは、1999年に金融監督庁(現在の金融庁)が最初の検査マニュアルを公表し、銀行に対してコンプライアンス検査を開始した頃である。

それから10年以上の月日が発つものの、新聞、テレビ等では、コンプライアンス違反の報道が後を絶たない。オリンパスの粉飾決算事件、大王製紙不正融資事件、AIJ投資顧問による企業年金消失事件、旧中央三井アセット信託銀行の増資インサイダー事件、SMBC日興証券増資情報不正株勧誘事件等々と最近の事例は、誰が考えても明らかに不正行為といえる内容のものだ。コンプライアンス違反と、特別な外来語を使用する必要もない。

「コンプライアンス遵守」とは、法令遵守を前提に、社会規範や各企業の企業理念を遵守することも含む概念である。ところが、最近のコンプライアンス違反と言われる事件では、コンプライアンスの基本的概念である「法を守る」とか「企業倫理を守る」という段階以前の「何が善で、何が悪か」という中学生や高校生ですら判断可能な次元での不祥事が繰り返されている。

そして、これらの事件をコンプライアンス違反と見做し、今後の改善策として、各関連企業におけるコンプライアンス体制の改善事項を第三者委員会や社内の管理委員会が指摘し、それをもとに不正行為を起こした各企業が具体的な業務改善策を作成して金融庁宛てに提出し、その改善内容を厳格に実施していく、という一連の手続きが行われていくシナリオはいつも通りである。

しかし、それでは根本的な問題は解決されなまい。同じような事件や不正行為がまた、日本の企業で起こる可能性が高い。つまり、問題の本質はもっと根深く、また複雑であり、日本企業や日本社会に共通した要因がこれらの不祥事には通底しているように思われるのである。

日本の法典の多くは米・独・仏の三カ国など西欧諸国から継受したものがほとんどであると言われている。明治維新以来の「近代化」という国家目標により、日本は西欧型の法化社会へと突き進んだため、自己の利益を中庸と謙譲の精神で抑制し、まわりとの調和を第一に考えようとする日本人の伝統的法意識などは十分に反映されたものではなかったと当時の史実が語っている。

日本では自己権利を主張する者は、秩序を乱す者として周りから敬遠、排除され、村八分にされる風潮が今でも社会や企業内に残されている。また、人間関係をうまく保つために、まわりの人たちとうまくやっていくことを個人の権利主張よりも優先するという空気が、いまだ日本企業の多くには残存している。

日本社会では紛争の解決方法としては、法に訴えるという手段ではなく、組織の長や地域の市村長などのお上の権威に頼る傾向がことさら一部の地域社会では根強い。つまり、当事者双方に対する白黒をつけず、水戸黄門や遠山の金さんに見られるような「喧嘩両成敗」的な穏便な人情味ある解決方法に頼る傾向がある。

一方、アメリカをはじめ西洋社会では、各国間で程度の差こそあれ、彼らは第三者との対立に対する解決策としては、法に訴え自らの権利をオープンに主張し、相手の誤りを指摘する方法を採択する。日本社会には今でも時折みられる、「義理」や「人情」といった非論理的な判断基準が入り込む余地はない側面を有している。

日本は法制面では西欧化が進んだものの、上述したような日本人の伝統的法意識が相変わらず部分的に残存し、日本社会の行動様式に大きな影響を与えている。そのため、法制度と実生活の間に「ずれ」が生じてしまい、グローバル時代の到来とともに、その「ずれ」がますます肥大化して、法令違反など不祥事を誘発しているように思われるのである

繰り返しになるが、「コンプライアンス遵守」は、単なる「法令遵守」だけの範囲にとどまらず、社会規範や各企業の企業倫理を遵守することも含む、広範で重畳的な概念である。

前者の「法令遵守」は、「法に従う、法を守る」という意味として日本国内に限らず、国際間でも共通した概念である。とりわけ、経済のグローバル化が急速に進展するに伴い、法に対する日本人の認識や意識もグローバルな見地から判断され、時として批判される機会が急増している。オリンパスのコーポレート・ガバナンスに対する海外からの批判は好例である。

日本人の法意識とは、法に対する日本人の意識であり、「法に従うか否か、法を守るか否か」という法に対する日本人の行動様式に大きな影響を与える。
その結果、日本人のコンプライアンス遵守に対する対応や判断にも大きな影響を与えることになる。

ところが、法というものは、本来、言語、宗教、道徳、経済などと同様に、国家における文化の一側面であるにもかかわらず、我が国の法典の多くは百年以上も前に米・独・仏の三各国から継受したものがほとんどである。明治政府は、主にドイツとフランスの法典を模倣して基礎的法典を策定したと言われている。大戦後においては、米軍占領下という事情もあり、アメリカ法からの継受という側面が大きかったようである。

このような歴史的な背景の中で構築されてきた我が国の法は、その基本的な観念や論理・思想において著しく西洋おびた内容になってしまっているのは想像に難くない。そして新たな法を西洋から継受するという判断も、列強国との不平等条約の解消というはなはだ政治的な判断に基づいているとすれば、日本の一般市民の法意識や倫理観とは異なる内容のものを当時の日本の実情ともそぐわない形で日本の法体系の中に埋め込んでいったことになる。

近代化を急いだといえば、物事の一面だけを見て物事の本質を見失うことになる。当時の明治政府の策定した近代法典の体系と現実の国民生活との間には大きなずれがあることをいち早く指摘したのは、民法と法社会学の権威である川島武宜であった。

川島は、『日本人の法意識』(1967年)で次のような趣旨をのべている。
1.日本の法典は西洋的であった。
2.法典と一般の国民生活の間にはギャップがある
3.日本人には、伝統的に「権利」の観念がない
4.日本人には、一般的に、遵法精神が欠けている
5.日本人には、所有権に対する意識が薄い
6.日本人には、契約の拘束力に対する意識が弱い
7.日本人は訴訟を嫌う傾向がある
8.日本人は、争いを調停あるいは仲裁によって解決する傾向がある
9.日本人の法意識は、日本社会が近代化することによって、「近代的」になっていくだろう
 

 その後も内外の有力な比較法学者たちにより、西洋法と極東法の違いは、西洋における法治主義、法の賛美、法律家に対する尊信、裁判による紛争解決に対し、極東における徳治主義、法と法律家にたいする不信、調停による紛争の解消、とされてきた。

また、西洋においては「権利のための闘争」が美徳とされ、極東では中庸、謙譲、平和的和解が人間の基本的徳性とみなされている旨、喧伝されてきた。

しかし、一方でそれに異論を唱える法学者も現れている。(続)


(参考文献)
川島武宜『日本人の法意識』、
青木人志『「大岡裁き」の法意識―西洋法と日本人』
大木雅夫『日本人の法観念―西洋的法観念との比較』
中川剛『日本人の法感覚』

ウォール・ストリート45歳説

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸(おかもと ひろゆき)

 「ウォール・ストリート45歳説」という言葉がある。今となっては、懐かしい響きさえする。その言葉の意味は、こうである。

 ニューヨークマンハッタンの南端部に「ウォール・ストリート(Wall Street)」と呼ばれる細い通りがブロードウェイから東に下る所にある。その通りが位置する地域は、世界を代表する米国をはじめ海外の代表的な証券会社や金融機関が集まり世界的な金融地区となっていたことから、米国の金融業界や証券市場を比喩的に表現するときに、その通りの名前が代名詞としても使われている。

 「ウォール・ストリート」と同名の映画がマイケル・ダグラス主演で1987年に米国で公開され、日本でも翌年1988年公開されて大きな反響を呼んだ。主人公の投資銀行家、ゴードン・ゲッコーに憧れ、外資系金融機関に職を求めた若者が日本でも続出したようだ。

 さて、そんな映画が日本でも公開されたこともあり、ウォール・ストリートで働くインベストメント・バンカーたちのファッションや彼らの仕事のやり方が日本にある外資系、日系を問わず証券会社や金融機関で働く者たちの間で良く話題に上った。私も外資系金融機関で働く一員としてそんな会話に加わっていた。

 その時、「ウォール・ストリート45歳説」ということが、ときおり話題にでてきた。その意味は、アメリカのウォール・ストリートで働くインベストメント・バンカーたちは、大金を稼ぎ、一儲けするために、45歳までは懸命にはたらき、その後はさっさと退職してしまう。そして、その後は自分で何か仕事を始めるか、郊外に豪邸を買って、近くの小さな金融機関などに転職して、悠々自適な生活を送るというもの。

 45歳という区切りをどういう理由で設定したかは良くわからないが、おそらく二つの理由からだ。第一の理由はそんな過酷な生活は、屈強なアメリカ人とはいえ45歳が体力的に限界だということ。第二の理由は、一生、定年までそんな仕事だけに追われるような人生を送りたくない、ということだろう。

 豊かな人生をおくるのに必要な大金を稼いだら、さっさと退職し、郊外の郵便局や小さな地方の金融機関に天下って、牧場でも経営しながらのんびり過ごそうかといった、彼らなりに明確な目標と計画に基づく人生観である。

 ひるがえって、我が国のビジネスマン諸兄は、どうだろう?45歳どころか以前は55歳と設定されていた定年も、いつの間にか60歳へと延長されてしまい、さらに、延長されかねない雲行きだ。

 長く働くこと自体は、決して悪いことではない。重要なことは自分の人生は自分で考え、自分で計画し実行することだ。

 そろそろ日本のビジネスマン諸兄も、(企業、政府などの)お上からお膳立てされた人生設計に従うのではなく、自らの人生は自ら切り拓き、歩んでゆく時を迎えているのではないだろうか。

 確かに当時のウォール・ストリートで働く連中のように稼ぐことは簡単ではないが、彼らの人生設計に対する
”Greed”(貪欲)は、学ぶ必要があるだろう。(了)






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コンプライアンスとマジックの共通性

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸(おかもと ひろゆき)

先週の金曜日(4月6日)、日本橋でコンプライアンス・セミナーを開催した。
幸いにして20名近い人が参加してくれて盛況だった。

当セミナーには、筆者の高校時代からの親友で、マジシャンとして有名な
ボナ植木(ナポレオンズ)が多忙なスケジュールのなか応援に駆け付けてくれた。

今回のボナ植木のマジックを観て不思議な発見をした。それは、マジックにおいても
コンプライアンスにおいても、常に、冷静に、「健全な疑いの精神」で見つめることが大事で、
その点でマジックとコンプライアンスには共通性があるということだ。

つまり、そうすることによって、マジックをより楽しく鑑賞することができるし、
コンプライアンスにおいては、厄介なトラブルに巻き込まれなくなる。
コンプライアンスとマジックとは、「健全な疑いの精神」で共通しているのだ。

但し、両者間ではまったく異なる点もある。それは、彼も言っていたように、
「だまされて良いのはマジックだけ、だまされないためには、コンプライアンス!」
ということだ。

次回開催されるコンプライアンス・セミナーでも、ボナ植木の鮮やかなマジックを
「健全な疑いの精神」を持って楽しく鑑賞したいものである。(了)

グローバル・コーポレート・ガバナンスへの経営革新

コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸(おかもと ひろゆき)

 最近の新聞報道によると、2011年度の日本株売買における海外投資家のシェアが約65%に達し、2年連続で過去最高となったようだ。一方、それとは対照的に生損保などを含む日本の金融機関のシェアは、6.7 %と28年ぶりの低水準に落ち込んだとのこと。

 このデーターの意味するものは、日本国内の株式市場や上場企業に対して海外投資家の影響力がますます強まってきていることの証左以外の何物でもない。

 視点を変えてこの流れを捉えるならば、株式市場を重要な資金調達の場として活用している上場企業にとっては、従来の古典的な日本的経営から脱皮して、海外投資家の目から見ても納得のいく、より透明性の高い、グローバル・スタンダードなコーポレート・ガバナンスに基づく企業経営、すなわち、「グローバル・コーポレート・ガバナンス」が強く求められる時代の到来を意味する。

 いっぽうで、昨年来、オリンパスの粉飾決算・損失隠し、大王製紙の創業者社長による資金不正流用など、日本の有名企業による不祥事が相次ぎ、日本企業のコーポレート・ガバナンスに対しては、とりわけ海外投資家からは厳しい視線が向けられ、その評価は決して高くない。それどころか、数年前から海外の機関投資家からなる団体等からは、日本の上場企業に対するコーポレート・ガバナンス(企業統治)に対する様々な問題点が指摘されるとともに、その改善要請書が相次いで関係当局宛てに提出されているのである。
 
 日本国内では、そのような海外からの改善要請に背中を押される格好で、企業統治制度改正の議論が年々、続けられている。経済界では、従来の日本型コーポレート・ガバナンスに拘泥する風潮が依然、強いようである。

 「イノベーションのジレンマ」という言葉がある。成功事業の存在が革新的な新事業育成の邪魔をするという、企業経営に対する罠というほどの意味だ。

 IT革命などにより全世界的な経済パラダイムが大きく転換したのにもかかわらず、過去の成功に縛られ、新たな革新的発想ができないでいる状態、今の日本は、まさにこの「イノベーションのジレンマ」に陥っているのではないだろうか?

 最近、勃発したAIJ投資顧問による年金消失問題や大型の公募増資に関連したインサイダー事件などは、政治家や行政当局を規制強化へと動かし、また、株式投資へ慎重であった国内投資家を一層、株式投資から遠ざけ、個人、機関を問わず、日本投資家の株式離れを一層加速させることだろう。

 そんな混乱状態の日本株式市場に対する日本投資家の懐疑的な行動とは対照的に、海外投資家は冷静に日本の株式市場を観察し続けている。そして、投資機会があればいつでも資金を投入し、投資収益を上げられるよう準備体制に入っているのである。そして必要とあらば、「グローバル・コーポレート・ガバナンス」にもとづき、不透明な日本的企業経営に対してますます声を上げてくるに違いない。

 これは、日本的な和の精神が良いとか、欧米のハガタカ・ファンド的な弱肉強食的な精神が悪いとかの議論とは次元の異なる話である。日本企業が国際的な競争力を強化・維持するために必要な活動資金をいかに有利に、効率的に、或いは海外企業に劣後しない条件で調達していくことができるか、といった企業の重要な経営戦略にも直結する話である。

 これからの日本企業の経営者は、今回の東日本大震災時に海外からも絶賛を浴びた他人への思いやりや和の精神を経営理念に取り入れつつも、同時に、世界に通用する「グローバル・コーポレート・ガバナンス」をも踏まえた、革新的な企業経営を一日も早く確立する必要がある。もう、余り時間的猶予はない。(了)