コンプライアンス・アドバイザーの休日

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zoom RSS 閉ざされた思考空間〜専門家への過信〜

<<   作成日時 : 2012/05/29 18:32   >>

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コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸(おかもと ひろゆき)

 日本において明治以降、近代化とは西洋化することであった。明治時代にはヨーロッパの主要国英独仏を見習い、戦後はアメリカを見習うことが近代化であった。欧米語で書かれた書籍から欧米文化を日本語へ翻訳し、それを日本社会へと取り込むことが近代化だと考えたのだ。

 今となってみると、そのような一方的な西洋化現象は、我々の社会を歪め、解決すべきさまざまな課題を現代にもたらしている。

 教育メディア研究等を専門にする日本大学文理学部教授の小笠原喜康氏によれば、日本は、工場で働く人間を作ることを最大目的にした明治以来の「近代教育」を、戦後においても変えることなく継続した。そのための重要な学力は「時間を守る道徳」と「自分で考えない力」の二つであった。
(小笠原喜康『新版 大学生のためのレポート・論文術』)

 この近代教育の話がその通りに実行されたのであれば、その結果もたらされた深刻な社会的弊害は、「自分で考えない力」を有する国民の大量生産である。

 自分で考えることができないということは、第三者の言うことの是非を判断することができない、ということである。当然、自分の考えを言語化することもできない。自分の考えを言語化できなければ、自分の意見を相手に述べることもできないし、相手を説得することもできない。ただ黙って頷くか、相手の言いなりである。

 これでは、第三者とまともな意思疎通をはかることはできない。さらに、物事の良し悪しを判断することもできなければ、相手の言うことに対して論理的に反論することもできない。
 
 「自分で考えない」ということは、物事に対して深く思考しないので、物事の裏にある真理を追究しようともしない。つまり、物事の表層だけを信じてしまい、物事の深層に隠された真実を理解しないことになる。

 まだ、自分は深く考えていないということを自分で意識しているうちは、その深刻さに改善の余地が残されているかも知れない。問題なのは自分では考えていないという事実すら認識できずに、あたかも自分で考えて判断したような錯覚に陥り、第三者の言うことをそのまま信じてしまい、平然として毎日の生活を送っている状態である。

 我々は、「近代教育」の「自分で考えない」という誤った教えに今も忠実に従い、自分の人生や世の中を左右するほどの重要な問題について思考を停止していないだろうか。そして第三者の意見を少しも疑うことなく、そのまま安易に信じて受け入れてしまうことを無意識のうちに続けていないだろうか。

 最近、「専門家」がテレビに出演して意見や解説する機会が増えている。それも報道番組のみならず、ワイドショー番組まで頻繁に出演するようになってきている。ここでいう専門家とは、社会的な権威があり、社会的に影響力がある大学の教授であり、弁護士であり、医師などである。

 彼らを個人的に攻撃するつもりはないし、彼らの言っていることを全て否定するつもりもないが、なかには専門家という肩書を使い本来の自分の良く知らない問題のことまで知っているかのように振る舞う者がいる。

 専門家とは自分の専門分野の狭い限られた領域についてのみ発言権が与えられている立場の者である。専門家として発言する場合には、あくまで自分の専門分野の専門知識に基づき限定的な意見だと断ったうえで発言するべきである。専門家は本来、自分の価値観や思想を専門家としての立場では語るべきではないはずだ。それが専門家としての責任であるし、専門家のあるべき姿だ。

 宇宙物理学者で名古屋大学名誉教授の池内了氏は、科学者と社会について次のように述べている。
「社会のことを決めるのは市民。科学者や技術者ではありません。市民が判断できる材料を出すのが科学者の社会的責任です。しかし、科学者は研究費欲しさに政府やスポンサーばかり見て、納税者という本来のスポンサー、市民の顔を見て語ってこなかった」(2012年3月10日付日本経済新聞夕刊)

 さらに、池内氏は科学者の傲慢さについてこう述べている。
「科学者は自分の専門の狭い領域について知っていても、それ以外のことについては無知。にもかかわらず、自分が知らない問題についても知っているかのように振る舞い、専門家にありがちな傲慢さが抜けきらない。スペインの文明史家、オルテガは1930年に名著『大衆の反逆』で、これを科学者に潜む野蛮性として批判しています。これはいまの科学者にもそのまま当てはまります」(同上掲新聞)

 「群盲、像をなでる」という言葉のとおり、物事の捉え方や考え方は、全体のどこの部分に視点を置いているかで大きく変わるものである。

 京都大学大学院人間・環境学研究科教授の佐伯啓思氏は、像の全体像を指し示すのが「知識人」であり「専門家」の仕事ではないのに、現代では、専門家が自分のなでた部分を全体にまで拡大して知識人になろうとしている、と警鐘を鳴らしている。(佐伯啓思『学問の力』)

 「知識人」になることは決してたやすいことではないが、傲慢な専門家がなでているのは像の全体ではなく、像のある部分だけだと分かるくらいの知識と判断力は我々も身につけておく必要がある。

 現代の社会情勢は、猫の目のごとくめまぐるしく変革を続け、情報技術をはじめとした科学技術の進歩はとどまる所を知らない。科学や技術が複雑化し専門化すればするほど、我々は「専門家」に阿り、全ての判断を彼らに委ねたくなる誘惑に駆られる。

 しかし冷静に考えてみると、自分の人生や将来については、自分以上に真剣に考え、理解している者はこの世にいないはずだ。専門家とは、特定の分野における課題を特定な視点から眺め、特定な結論を導き出すことを生業とする者である。専門家は、万人に共通した、あるいは万事に有効な解答を有しているわけではない。

 これだけ科学や技術が細分化し高度化している現実社会で、一人の専門家が社会全体の問題をすべて理解していることは不可能に違いない。勝手な論理を振りかざして自分の専門外のことまで正論ぶって話す専門家の意見を盲信していては、物事の真実を見出すことはできない。

 社会問題に対する良し悪しの判断は、本来、我々ひとりひとりが自ら考え、自らの結論に至る過程を通して到達する必要がある。そのためには、日々の思考と経験を重ねることにより、自分で像の全体の輪郭が描けるだけの知識と知恵を蓄積することがどうしても必要になる。そして、時には「専門家」と称する者たちの意見をそのまま機械的に受け入れることをせず、自分の頭に蓄積された知識と経験と知恵に照らし合わせて、彼らの意見に対して反証してみることだ。

 そのように、常日頃から自分の頭で考え、自分で判断する習慣を養い、それを実行していけばある程度の「知識人」となり、自分に必要な像の全体像は描けるはずだ。そうでなくてはならない。(了)

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