コンプライアンス・アドバイザーの休日

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zoom RSS グローバル時代における日本語の危うさ

<<   作成日時 : 2012/08/21 01:05   >>

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コンプライアンス・アドバイザー 岡本展幸

 (1)政治家が話す不可解な日本語
 最近、テレビを観ていたら、我が国の首相が先に自ら公言した「近いうちに」という日本語表現に対して、記者からその語義を尋ねられ、「それ以上でもそれ以下でもない」と意の解さない返答していた。

 言葉は政治家の命、と言われほど言葉は政治家にとっては重要であり、政治家は発する言葉を慎重に選び、発する言葉に責任を持ち、発言するものだと海外では言われている。冒頭のような発言をした当の本人は、だからそう答えたのだと主張するのかも知れない。

 筆者は、一国を代表する政治家の日本語を耳にして、ある事を思い出していた。それは、経済のグローバル化が急速に進展し、望むと望まざるにかかわらず、日本人が外国人と接触する機会が急増している時代の流れの中で、今後、我々日本人がますます直面せざるを得ない異文化コミュニケーションの難しさである。

 海外のcounterparty(相手)と意思疎通を図るためには、共通に理解する意思疎通手段である「共通言語」が必要になる。その第一言語は、日本人にとり、あらゆる事由により、英語であろう。

 英語を使って外国人を相手に議論や交渉などをする時は、我々が日本人同士で日本語を使って話す時とは異なり、日本人としての本来の発想や言語表現を転換し、日本語の直訳ではない適切な英語表現で発話する必要性に迫られることがある。

 そんな日本語の言語的特性が我々日本人に与えるストレスやジレンマを、筆者は過去の20余年にわたる海外ビジネス経験や8年以上に及ぶ海外生活を通じて痛感している。

 我々が日本人同士で日本語を使い、話をする時には、我々の意識の根底には、意識的か無意識的かに係らず、「相手を思いやり」、「相手の顔を立てる」ために、相手を非難する直接的な表現は出来るだけ避けて、場合によっては自分の真意とは全く異なる内容の発言をしたり、「口ごもったり」、あるいは「黙ったり」してしまうことが多々ある。

 そのような対応を取られた相手側もこちらの真意をそこからできるだけ良心的に推察し、理解するよう努めるのが日本社会では「大人の対応」とか「常識人のあり方」とされてきたような気がする。また、そのような意識構造や言語習慣が日本人のDNAとして我々には埋め込まれてきたような気がする。

 最近でこそ、そのような伝統的な日本人のコミュニケーション・スタイルは、海外子女の増加や海外旅行や外国映画などを通じて、とりわけ若い日本人を中心に一部の日本人の間では欧米化スタイルと変貌しつつあるのも事実であろう。

 しかし、広範囲な純粋な日本人社会においては、依然として既述したような日本人の言語習慣は日本社会や日本人には深く根付き、日本人間のコミュニケーション場面では、当然のよう期待され踏襲されているように思われる。

 筆者が危惧するのは、そのような日本人のコミュニケーション・スタイルは、英語を自ら話す場合にも、英語通訳を介して日本語で話す場合にも、時として相手側の外国人には危険な誤解を与えかねないということである。


(2)日本語の曖昧さがもたらす危険な誤解
 経済のグローバル化の進展とともに一段と加速しつつある国内外の多種多様な一体化現象は、日本においても国際政治や外交といった従来の限定的な分野に留まらず、我々にとってより身近なビジネス社会へと大きなうねりとなり押し寄せてきている。

 このような経済構造の急変現象は、日本語だけを話していれば事が足りる国内市場対応のビジネス・モデルから、海外市場対応のビジネス・モデルへと大きく舵を切る経営転換を多くの日本企業経営者に対して余儀なくしているのが日本の現状である。

 今まで以上に英語を主体として、非母国語で議論したり、交渉したりする必要性が一般のビジネス場面でも急増していることは間違いない。それは同時に、コミュニケーション・ギャップが方々で発生するリスクが急増していることを意味する。

 日本の国民性的文化の特徴の一つとして「曖昧さ」があげられる。白黒をつけない、勝ち負けをはっきりさせないで、結果的に勝負や交渉事に勝つという考え方であり価値観である。

 相手を非難しない、反論しないという手法は論争の焦点をぼかすということにつながる。いきおい、相手側の肯定的解釈に結論を委ねる面が大きくなる。

 その結果、相手の解釈とこちらの解釈に大きなズレが生じ、双方全く異なった結論をお互い合意事項だと誤解してしまい、後々大きな火種となり、後世に深刻な問題を残す結果になりかねない事態を招くこともあり得る。

 「曖昧さ」がもたらすこのような危険性は、当事者間に共通した価値観、文化的・歴史的共通認識、そして何よりも日本的な非論理的な価値判断基準をどれだけ理解し共有しているかの度合に大きく左右される。

 つまり、相手側の立場や考え方などに対して十分確立された共通認識を根底および前提にして、「あいまい」な言語表現を使う話者は、相手の反応や理解度、反応度を事前に察知、想定したうえで、あえて直接的で明快な言語表現をしないわけである。

 それは自分の意見を曖昧な表現を駆使して伝えるという、非常に脆弱で誤解を容易に招きかねない危険度の高い「意思疎通手段」を駆使する日本独自の言語慣習と言わざるを得ない。

 さらに悪いことに、「負けるが勝ち」とか「潔さ」といった、言い争うこと自体が良くないことで、議論などせずに相手にしないことが「立派な振る舞い」だとするような社会的な認識が、日本人のDNAとして我々の頭のどこかに埋め込まれているような気がする。

 日本人同士での議論や交渉場面なら、まだ、このような「腹芸的な方法」は、場合によっては功を奏することがあるのかも知れない。それでも、最近の若い層を中心としたビジネス現場や社会では、必ずしもそうとは言い切れない。

 そんな前近代的な「腹芸的コミュニケーション」は、日本社会ではいまだ多くの場面で散見するが、一番顕著なケースが、冒頭にあげた事例のように政治家の発言だろう。

 本来、国際間の交渉という国際的な見地に立っての外交手腕や国際的視野に基づいた国家的政策の実現能力が問われるべき政治家こそが、国際感覚に基づいた、論理的で明解な日本語を発するべきであるのにもかかわらず、我が国の政治家には、そのような素養は見られない。大戦後、日本は米国の庇護のもとに外交能力や国際感覚などがほとんど必要とされてこなかったという日本の歴史的事情も影響しているのかも知れない。

 そんな特殊要因も加わり、日本の政治家の発する日本語は、現代の我々、標準的な日本人にとっても分かりづらく、空疎で意味のなさない、言葉遊戯的な特殊言語と言わざるを得ない。


(3)意味不明な日本語発言は、国益さえ損ねる
 鳥飼久美子著『歴史を変えた誤訳』によれば、日本に原爆投下を招いたのも、時の首相が公言した、真意を測りかねる日本語に対する(結果的な)誤訳が原因となった可能性がうかがえる。

 以下、同書を参考にして、異文化コミュニケーションにおける日本語の曖昧表現の危うさについて検証してみよう。

 大戦末期に、ポツダム宣言が発表され、日本へ無条件降伏を要求された時に、当時の首相は、「静観したい」という意味のことを世間から弱気に見られたくないがために「黙殺する」という言葉を使い、記者会見で言明したそうだ。

 それを当時の同盟通信記者が “ignore”(無視する)と英訳したのを、連合国側が “reject” (拒否する)と解釈した結果、それから10日もたたぬうちに広島に原爆が投下されてしまったという。

 『ベルリッツの世界言葉百科』には、「もしもたった一語の日本語を英訳する仕方が違っていたら、広島と長崎に原爆が投下されることはなかったかもしない」とある。

 さらに、より近時の政治家によるコミュニケーションの失敗例を挙げるなら、1970年にワシントンで行われた「佐藤・ニクソン会談」がある。

 当会談の主要議題は、当時、日米貿易摩擦の原因となっていた日本からの繊維製品輸出問題であった。

 当時、米国内で火種となっていた日本繊維製品の輸出急増に対して、ニクソン大統領は繊維輸出の自主規制を日本側に求めてきた。

 それに対して、佐藤首相が「善処します」と答えた発言に対する通訳内容が、後に日本の国益を損ねるほどの大問題に発展してしまったのである。

 どのように通訳されたかは諸説があり、”I will examine the matter in a forward looking manner.”とか、”I will do my best.”とか通訳されたと言われている。

 いづれにしても、佐藤首相の日本語は、標準的な日本人にさえ、「玉虫色の政治家表現」とされる発言内容である。

 また同書によれば、コミュニケーション理論の専門家のディーン・バーランド氏は、『佐藤首相はニクソン大統領に対して「話は三割、あとの七割は腹芸でいきましょう」と提案し、言葉でははっきりとは説明しなかったものの、アメリカの繊維業界に対しては理解を示した』と述べている。

 一方、ニクソン大統領は、佐藤首相が米国側の状況を理解してくれたのだから、日本は自主規制をやってくれるに違いない、と判断してしまったそうだ。

 こうして、ニクソン大統領の方は、日本への沖縄返還の見返りとして、日本側は繊維輸出規制をすると思い込んでいたのである。

 ところが、米国は沖縄返還の約束を果たしたのに、いつまでたっても繊維輸出規制をしない日本に対し、騙されたと憤慨したニクソン大統領は日本に対し二度にわたり逆襲に出たのである。
 
 一つは、1971年7月、日本へ事前通知をしないままで米中国交回復の突然発表であり、いまひとつは、1971年8月、「新経済政策」としてニクソン大統領が発表した、関税の一律10%追徴とドルの切り下げ発表であった。これは明らかに日本をターゲットとしたものであったと言われている。

 驚くべきことは、これほど深刻な結果を日米両国にもたらしたにも係らず、生前、佐藤首相もニクソン大統領も、そのコミュニケーション・ギャップの原因を理解していなっかたとされる事実である。

 当時は、通訳者の誤訳とされていた見方が大勢であったようであるが、真相は、異文化コミュニケーション・ギャップによる誤解が主因であったとされている。


(4)英語より日本語が大事
 このような通訳上のミスの重大性を認識してかどうか分からぬが、一時期、日本では英語を日本の公用語にしてはどうか、といった極端な事を言い出す学者も出現した。

 しかしそんな極論を言い出す前に、母国語である日本語による時代遅れな言語習慣を時代に即したものに正すべきである。

 自国の文化を大事にし、尊重することは決して悪いことではない。国語教育の重視や改善も提唱されて久しい。しかし国語の教科書に使用される旧態然とした古典的な文学作品を通じての国語教育や過度に文学的表現に偏った日本語に焦点を当てた国語教育では、21世紀に必要とされる、誤解のない日本語の駆使能力の習得は期待できない。

 時代の変遷に即して政治家が駆使する日本語の表現方法を改善しないのなら、我々一般市民が先んじて分かりやすい、グローバル化に対応した現代的な日本語を習得し駆使していけば良いだろう。そうすれば、彼らも時代遅れな日本語の言語慣習を改めて我々に追従してくるに違いない。(了)




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